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第38話
発情期が本格的に始まったのか、それからも二人はずっと触れ合っていた。
一日中ひっついて、飲み物を飲んでは繋がって、ご飯を食べる間も快楽を求める。場所も関係なく、リビングやダイニング、風呂や玄関など、行き着いて我慢ができなくなったところで尽きるまで貪りあっていた。
麻陽が少し落ち着いたのは、それから三日後のことだった。
発情期が終わったわけではないが、アルファの挿入が常時必要にはならない状態にまで落ち着いた。麻陽はもともとフェロモンも少なく、発情期も不安定なために落ち着くのも早かったのだろう。
四日目の朝。
小鳥遊は仕事に向かうためにスーツを着込むと、麻陽のフェロモンを受けないようにとアルファ用の薬を飲んだ。そうして麻陽の眠る寝室に向かう。
「麻陽、行ってくる」
声をかけると、麻陽がゆるりと起き上がった。火照った顔で何度も頷き、小鳥遊が脱ぎ捨てたシャツを着てベッドを降りる。
寝室から出てきた麻陽は、小鳥遊の背中を押した。どうやら見送りにきてくれるらしい。
扉が閉まる瞬間が嫌いだと言っていたから、見送りなんて夢のまた夢とも思っていたのだが……とんだ展開に、小鳥遊はひそかに心を打ちふるわせた。
「行ってらっしゃい」
「……今日は事情を話して早めに帰るから。待ってて」
「うん。分かった」
靴を履いて振り向いた小鳥遊は、麻陽に触れるキスを送る。少し見つめ合っていたが、時間がギリギリになった頃、小鳥遊は幸せそうな笑みを浮かべ、名残惜しそうに家を出た。
麻陽の目の前で扉が閉まる。
前はこれが死ぬほど嫌だった。客が帰るところなんか見たくもなくて、いつも目を逸らしていた。
(……全然寂しくない)
小鳥遊の匂いが残るシャツを嗅ぎながら、麻陽はまっすぐに部屋に戻る。
小鳥遊の言っていた「満たされる感覚」が、今ならよく分かる。大切にされていると感じる。愛されているのだと自覚した。
そして麻陽の中にあった小鳥遊への気持ちが、最初よりもしっかりと色付いたようだった。
嬉しくて楽しくて幸せで、麻陽はふわふわした気持ちのままでベッドに横になる。
何時に帰ってくるだろう。早く帰ってこないだろうか。さっき別れたのにもう会いたくて、だけどそれは「寂しい」とは違う。
麻陽は初めて恋しさに胸を焦がしながら、ベッドで丸くなっていた。
*
小鳥遊は朝から花を飛ばしていた。
もちろんそれは目に見えるものではない。浮かれた様子のせいでなんとなく見えてくる、雰囲気的なそれである。
とにかく気持ちが悪いほどに機嫌が良く、加倉は出社した直後から砂糖でも吐いてしまいそうだった。
「うまくいってよかったですね」
「ん? 何がだ」
「それで隠してるつもりですか。神田くんのことですよ。……無事まとまったみたいで良かったです」
「……ああ、そうだな。その節は助かった」
困ったように眉を下げて、ふにゃりと表情を崩す。そんな小鳥遊を見たことがなかった加倉は目を丸くして驚いていたのだが、浮かれているからか小鳥遊は気付かなかったようだ。
「そうだ、今日は少し早めに上がる」
「ああ、はい。まだ発情期 終わってないんですよね。というかよく三日で出てこられましたね。おれ結構調整できますよ?」
「分かってる。俺だってずっと引きこもっていたかった。……しかしあれ以上麻陽と一緒に居たら、二度と外に出ない気がしたんだ」
「賢明な判断ですね」
呆れ気味にデスクについて、加倉は速やかに仕事を始める。
小鳥遊はそんな加倉に気付いてはいたが、気にすることなく仕事を始めた。
やはり調子が良いからなのか、何のトラブルもなく段取りよく仕事は終わった。
残業の必要もない。ある程度は加倉が調整をしてくれていたのか、小鳥遊はいつもより少しだけ早めに退社することができた。
オフォスビルを出て、車に急ぐ。そこでふと、麻陽の好きな甘味でも買って帰ってやるかと帰り道を少しだけ変えた。
麻陽は甘いものが好きだ。特に洋菓子が好きなようだから、ケーキでも買って帰れば喜んでくれるだろう。
急いでパーキングに車を停めて、駆け足でケーキ屋に急ぐ。街中の一番有名なところだ。時間的には混んでもいない頃合いである。
とにかく気が急いていた。だから周囲なんかあまり見ていなくて、小鳥遊はまっすぐにケーキ屋だけを目指していた。
それがいけなかったのかもしれない。
急いでいた小鳥遊は花屋の店員が水を撒いていたことにも気付かず、そこに躊躇いもなく突っ込んだ。
バシャ! と、足元に水が掛かる。革靴はぐっしょりと濡れて、スーツの裾も水で変色している。足を止めた小鳥遊は一瞬驚いた様子だったが、すぐに店員に振り向いた。
「あ、あ! この間の! あの、すみません、また、その……タオルとってきます!」
店員は真っ青になり店に引き返す。
やけに怯えた様子だったのは、かつての小鳥遊の態度が悪かったせいだろう。
――あのときは、この場に麻陽も居た。
水をかけられても動じることなく、店員に怒鳴っていた小鳥遊を恐れることなく飄々とマイペースを貫き、うん十万のスーツを軽々と弁償した不思議な少年だった。
そのときのことを思い出して、思わずハッと息が漏れる。つい最近のことなのに、もう遠いことのように思えた。
小鳥遊の幸福な人生の始まりの初日、それまでの人生で最悪だった一日のことである。
店員がタオルを持ってやってきた。
過剰に頭を下げて、申し訳なさそうにしきりに謝罪を述べていた。
「そうだ。花をもらおう」
ケーキも良いが、花もいい。特別な日ではないが、花束のほうがある種ロマンチックかもしれない。
「……え、と……?」
「大切な人にあげる花束を作ってくれ。俺の番への、最高に綺麗なものを」
店員がパッと笑顔になり、嬉しそうに店に戻る。
小鳥遊も浮かれたような笑みを浮かべて、濡れて履き心地の悪くなった革靴をぐちょぐちょと慣らしながら店に向かった。
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