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おまけ:小鳥遊家
騒がしく鳴り続けるドアベルの音で、麻陽は目を覚ました。
時計を見れば午前七時。来客には早すぎる時間である。隣では小鳥遊がまだ眠っていて、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
昨日も帰りは遅かった。おそらく、少し前に眠ったばかりなのだろう。
小鳥遊を起こすことなくそっとベッドから抜け出すと、麻陽はスリッパを鳴らしながら玄関に向かう。
オートロックの開け方を学んだ麻陽は、この音が玄関のドアベルの音であるとすぐに分かった。そのため「はーい」と間延びした声を出して、確認することもなく玄関を開ける。
「うっわ、びっくりした。天使かと思った。きみ男の子? 女の子?」
「ん……男の子」
「あ、そっか、和真の結婚相手のオメガちゃんだ。へぇー、すっごい可愛い。びっくりしたなぁ」
扉の側に立っていたスーツの男は、麻陽を興味深そうに見つめていた。
見たところ、小鳥遊と同じほどの背丈のアルファである。小鳥遊よりも雰囲気が柔らかく、髪の色も茶色い。薄い二重の切れ長の目が似ているなあと思ったところで、麻陽はようやく頭を下げる。
「おはよーございます」
「え? ああうん、おはよう。俺和真の兄貴の小鳥遊奏真 。ちょっとお邪魔していい?」
「? どーぞ」
麻陽が脱力気味に身を引くと、奏真はわくわくとした様子を隠しもせずに中に入る。
「じゃー僕お風呂入りたいから奥行ってて」
「え? あ、うん分かった」
お客様なのに放置されるの? とは思ったが、奏真は何も言わず麻陽の背中を見送り、リビングへと足を向ける。
実は奏真がこの家にやってきたのは初めてのことである。小鳥遊家の兄弟の中でも三番目の和真は特に秘密主義で、一人暮らしの家の住所も自分からは教えなかったし、学生時代に起業することすら言わなかった。カードキーも家族に渡していない。三番目だからこそなのか三人の中では比較的気楽に育てられた和真が一番、実は奔放で自由な生き方をしている。
奏真はリビングのソファに座り、家主の姿がないことに気付く。まだ眠っているのだろう。それを狙って繁忙期の早い時間に押しかけたのだから、起こすこともしなかった。
やがて麻陽が戻ってきた。濡れた頭を乾かすこともせず、大きなあくびを漏らしながらやってくると、一応奏真にコーヒーをいれてくれた。
「ありがとう。えっとー、名前は?」
「……神田麻陽」
「麻陽くんかー、可愛い名前だね」
「どーも」
麻陽は奏真の居るソファには座らず、置かれていたクッションに埋まるように腰掛けた。
「ねえ、麻陽くんって風俗で働いてたんだよね?」
「うん」
「小鳥遊家に入ったらさあ、名家を呼んで大規模なパーティーがあったりすんだけど、そういうときってみんな結構情報持って参加するんだよね。重箱の隅つついてみたり、足元すくってみたり、交渉に使ってみたりするためにね。……俺としては、そんな中で和真の結婚相手が風俗あがりだって知られるのはまずいと思うんだよ」
「ふーん」
奏真にはコーヒーを用意したが、麻陽は牛乳を飲んでいた。眠たそうな目をしたままで一口含むと、すぐにグラスをテーブルに戻す。
「この結婚、実は小鳥遊家はみんな反対してる。身を引いてくれない?」
奏真はあくまでも笑顔を浮かべたまま、分厚い封筒を差し出す。
「きみの存在は小鳥遊家にとっては汚点になる。和真のためにもならないよ。俺たちと和真のためにも、この家から出て行ってくれないか」
牛乳のグラスの隣に置かれた封筒。麻陽はそれの中身が分からず覗いてみると、札束が入っていた。
「僕お金には困ってないよ?」
「これは手切金だから。二度と和真と会わないでねってお願いの印」
「……ふーん?」
麻陽は首を傾げ、訝しげに奏真を見上げる。くりくりとした目だ。まつ毛も長く、テレビで見るどのアイドルよりもうんと可愛らしい容姿をしている。
奏真は一瞬ぐっとたじろいだ。しかし引くわけにはいかない。あくまでもにこやかな表情を浮かべていると、麻陽が不思議そうに口を開く。
「僕、カズマって人と会ったことないけど?」
「…………ん?」
「お兄さんずっと何言ってるか分かんない。カズマさんのこととここから出ていくこと、何の関係があるの?」
「……え、いや……か、和真だよ? 小鳥遊和真!」
「たかなし?」
「……ま、待って!? きみ一緒に暮らしてる人誰か知ってる!?」
「ことりさん」
麻陽にとって、小鳥遊は「ことり ゆう」でしかない。たまに周囲から「たかなし」とか「かずま」とかは聞くかもしれないが、麻陽の耳をなんとなく通過するだけで、それが小鳥遊のこととして残っているということはなかった。
奏真があんぐりとしていると、楽しそうに笑いながら小鳥遊が寝室から出てきた。まるで悪戯が成功した子どものような顔だ。
「おはよーことりさん」
「おはよう麻陽。奏真兄さんも」
「…………おはよ」
小鳥遊は尚も楽しそうに笑いながら「風呂行ってくる」と言って、奏真にとっては麻陽と二人きりという苦い時間を継続させる旨を伝えて背を向けた。
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