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第3話

 昼のピークが過ぎた食堂の隅っこで、エイダンが詰めてくれた弁当箱を開けた。 「……おや? セオが弁当とは、めずらしいのう」 「うわっ!」  肩越しにひょいと手元を覗き込んだのは、上司であり芸術院の最長老でもある、メシアン教授だ。  長い白髪とふさふさに蓄えた白髭が特徴で、修道士めいた雰囲気がある。  俺はいつも親しみと尊敬をこめて「老師」と呼んでいた。 「お、驚かせないでくださいよ。何かと思うじゃないですか」 「よいではないか。若人を驚かせるのが、この老体の唯一の楽しみなんじゃ」 「……老師の嗅覚は恐ろしいな」 「のう、セオ。こりゃハムかな? バラのようにくるくる巻いてあるわ。しゃれとるのー、おまえさんの伴侶は!」 「ぶっふぉっ!」  いきなりパートナーの存在に言及されて咽せてしまった。 「こーゆーの、流行っとるの?」 「いや……俺にはなんとも……」 「ほんなら、蜜月的なもんかのー」 「…………」  神託をもらったやつがいきなり手弁当を持ってきたのだから、生温かい目で見られて当然だったのかもしれない。  学生が帰ってしまうと、芸術院の学舎は火が消えたように静かになる。  一日の終わりにつける業務日誌を書き終えて、机から顔を上げた。吸い寄せられるように窓の外に目を向けると、かすかに空気が震えている。  雨だ――砂漠には降らない、神の恵み。  この国は海に面した小さな半島で、しょっちゅう雨が降る。長く続くことは少なくて、さっと降ってさっと上がるのがほとんどだが。  雨の滴はリズミカルに音を刻んでゆく。  タンカタッタン、タンカタッタン……  雨粒が窓に落ちて刻む音を辿っていると、故郷のリズムを思い出した。目を閉じて、そのまま雨音に耳を傾ける。  ふいに、教室の外が騒がしくなった。騒いでいるのは教授たちか。  不思議に思っていたら、ドアをノックされた。老師がひょこっと扉の隙間から顔を出す。  老師がわざわざノックをするなんて……空から槍でも降りそうだ。 「パートナーがお迎えにきたようじゃよ」 「……え、そんなはずは」 「セオ、いるか?」 「なっ、なんで!?」  老師の頭上から、エイダンがぬっと現れた。老師とエイダンが並び立つと、老師がいつも以上にひょろひょろして見える。  俺はなんだか必要以上に狼狽してしまい、あわわと目と手を泳がせた。教室の中でひとりだけ溺れてるみたいだ。  俺を見る老師の目が、愉快愉快と三日月形に変貌している。まったく人が悪い。 「遅くなるって、言ってたじゃないか!」  まだ夕の刻。飯屋の煙がそろそろ街に立ち上りはじめる頃合いだ。 「抱えていた仕事が早く終わってな。一緒に帰ろうと思ったんだ。夕食は外で食べようか?」 「いいけど……」 「お似合いじゃなー、ご両人。セオや、たまには分厚いステーキでも食べておいで」  新しいおもちゃでも得たように、目をぎらぎらさせる老師に挨拶をして、俺たちは街へ繰り出した。  四方八方から痛いほど視線を感じる。レストランに入ったときからずっとだ。  王都中心部、瀟洒な街並みの中の一軒。通好みといった雰囲気の上品な店だ。客層は裕福な市民が多いようだが、お忍びで来る貴族がいても納得だ。エイダンもそのひとりなのだろう。  本当のことをいうと外食はあまり好きじゃない。  決まった店で決まったものを買い、決まった人としか話さない。望んだわけではないが、狭くて小さな世界で生きている。  俺の容姿では、そのほうが心穏やかに暮らせるからだ。  この国の人たちはあまり旅をしない。そのせいか、異国文化や異国の人間に極端に馴染みのない人が多いのだ。よく知らないものは信用しないし、未知のものに対しては恐怖や警戒心が先に立つ。外から来た人間はよくない病気を持っているかもしれないし、極力触れたくもない……ということだろう。  そういう気持ちは分からないでもなかった。だけど、視られる対象となるのはまた別の話だ。  好奇の視線が多数。そして、それだけではない排他的な空気も半分、混ざっている。気持ちのいいものじゃない。  大きくて艶々としたステーキを前にしながら、自然と食欲をうしなって、ナイフとフォークを皿の端に置いた。  悔しくて唇を噛む。食べ物を残すのは罪悪感があった。誰かにごちそうされるときは特にそうだ。残しちゃいけないと強迫観念めいたものが胸にしこる。  せめて酒だけでも飲み干そうとグラスに手をかけると、エイダンがはっきりした声で言った。 「胸を張っていろ。君には一点の曇りもない」 「…………っ」  瞳をあげた。凛とした表情に励まされるようにして、無意識に崩れかけた姿勢を持ち直し、背筋を伸ばす。 「君の皿を、こちらへ」 「それは……だめだ、エイダン。俺のせいで、なんて言われるか」 「君を不快にさせるまなざしのほうが礼を欠いている。マナー以前に、人としてな」  調子を抑えているが、エイダンはホール中に聴こえるように告げた。 「僕は肉が好きだ。この店の食事も好きだ。だから君に食べさせたいと思った。理想的なディナーとはいかなかったが、それでも、君と共に過ごせることに感謝している」  俺はうつむいて、エイダンがステーキを綺麗に食べ終えるのを待った。なにも言えない代わりにむくむくと増大するのは、ひどくいじけた感情だった。  おまえはいいよな。アルファなんだから。  放っておいても人が寄ってくるし、怖いものなどないはずだ。  地母神の神託が尊ばれるせいか、この国では階級や家柄以上に、ダイナミクスで人の価値を判断する傾向がある。  アルファは国の中枢にいて当然で、オメガはそんなアルファに守られて当然。オメガとして順風満帆に生きたいのなら可愛いわがままをたくさん言いましょう、番が喜びますよ、みたいな向きすらある。  おかげでオメガといえば、腹をさすってふんぞりかえるような性格悪いやつばかりだ。オメガという性にあぐらをかいて学ぶ意欲がないやつでも、居場所が保障されているから羨ましい。  芸術院にはもう少しタイプの違うやつもいるが、総じて妙にプライドが高く、扱いにくかった。  俺はアルファでもオメガでもない。ベータ――つまり「なにも持たぬ人」であり、おまけに異国からの移民だ。  エイダンの傍にいるのは、二重の意味で肩身が狭い。常に誰かに問いただされている気がする。  おまえでいいのか? おまえが伴侶にふさわしいと、エイダンは本当にそう思っているのか?  エイダンの人間性に触れ、優しい気持ちを向けられるたび、自分が惨めに思えて、苦しくなる。  俺にだって人並みに、父も母もいたはずだ。けれど記憶があるのは、兄と旅をしていたころのこと。  兄は流れ者の楽士だった。俺も兄に教わって民族楽器を習った。  砂嵐に巻き込まれて兄を喪ってからは、草の露をすすったり、木の根っこを食べて命を繋ぎ、この国にたどり着いた。  たまたま子供のいない男爵様に拾われて養子となり、寝食に不自由しない居場所を手に入れた。  俺の過去を噂で知ったやつらが、「成り上がり者」とか「男娼」とかいう陰口をたたいているのを知っている。  エイダンの耳にも入っているかもしれない。俺の亜麻色の髪は、遠くからでも目立つはずだから。  エイダンは俺にたくさん与えてくれる。家、あったかいベッド、美味しい食事。だけど俺には返せるものがない。  それは傍にいられて嬉しいのと同じくらい、惨めで苦しいことだった。  ……エイダンのような人の隣にいる自信が、俺にはない。  レストランを出て家に帰り、ハーブのお茶を淹れた。けれどエイダンは疲れていたのか、腹がくちくなったせいか、飲み終わらぬうちにソファで寝こけてしまった。  すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。  同居をはじめてまだ間もないが、お互いのライフスタイルや生活リズムは徐々に掴めてきた。エイダンは朝になると元気になるけど、夜は目がしょぼしょぼとして、体も重そうだ。 「神様に俺なんかをあてがわれて……かわいそうにな」  そっと呟いた言葉は、静かに闇に溶けて消えた。

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