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後日譚
発情期を終えてから、二人で少し、俺の体について話した。
たどり着いたのは、俺の性が目覚めたきっかけはエイダンとの同居で間違いないだろう、という結論だった。特定のアルファのフェロモンに長時間晒されたことで、ほころびかけていた術の劣化が進み、やがて決壊して、発情期が到来したのだと。
「もともと、君が大人になったら解けるように設計されていたのかもしれない」
エイダンは同居当初、俺に向かって誘惑のフェロモンを「これでもか、これでもか」と発散していたらしい。
「はじめは君をベータだと思っていたから、通じないと分かっていたはずなのに……フェロモンが自然とあふれるんだ。不思議だったけど本能が嗅ぎとっていたんだろうね。この人はおまえの番だぞ、って。そういえば……」
――初めて会ったときから、君はバラの匂いがしてたな。
エイダンはそういって、はじらうように頬をかいた。
念のためにと医局を訪れて診断を仰いだら、しばらく経過観察する運びになった。
医官たちは「他国にはオメガ性を眠らせる術があるのか」と大いに感心し、俺を質問責めにした。
説明できることといえば兄から教わった音楽のことくらいで、彼らを満足させられるような答えは思うように返してやれない。それでも医官たちは興味深そうに話を聞いてくれる。おかげで、診察というより彼らとのおしゃべりが俺の楽しみになった。
付き添いでついてきたエイダンが見かねたように「セオが疲れるだろう。今日はここまでだ」といって、好奇心旺盛な若い医官を引き剥がす。話をぶった切られた医官は不満そうな顔つきになった。
「私たちは医術の進歩のためにセオくんとの語らいを……」
「ではこの国の発展のためにセオを僕に返してくれるね?」
「…………」
誰もが青ざめて黙り込む。人を圧倒するアルファの微笑み。
魅力的にも凶悪にも映るそれを医局でばらまくのはいかがなものかと思う。いや、医局だったらまだマシなのか?
医局を出てから、エイダンがちらちらと俺を見下ろしてくる。
「……その服、胸が開きすぎてないか?」
「はぁ? どこが?」
鼻に皺を寄せて問い返した。
安価な衣服だが、好きなものを着てなにが悪い。襟付きの服は窮屈だし似合わないのだ。
「鎖骨が見える。君の鎖骨に吸い付きたいとぬかすやつが現れたら……」
エイダンは剣の柄に手をかけた。
「僕は、手加減しない」
俺のうなじや首のまわりには噛み跡が鬱血痕が生々しく散らばっている。それを隠すためのストールも持ってきているが、医局では隠すこともなかろうと思って、今は巻いていない。
「そんなことするのは誰かさんだけだろ?」
「……ベッドでの姿態が頭から離れない。本当は君を誰にも見せたくない」
「エイダン。頼むから日常に戻ってきてくれ。ちょっと重いぞ」
くっ付いて離れようとしないエイダンは、俺を職場まで送っていくといってきかない。エイダンが俺を引きずっているのか、俺がエイダンを引きずるのか、もはや力関係がよく分からなくなっている。
アルファは番となった者への執着も激しいのだと、身をもって実感した。
まばらに人がいる場所を過ぎると、すばやく腕を引かれ、広い回廊の太い柱の影に連れ込まれた。エイダンが柱に手をつき、俺を腕の中に閉じ込める。おとがいに指をかけて顔を持ち上げ、唇を重ねた。
「セオ……今夜も許してくれるか?」
お互い発情期を終えたばかりだというのに、エイダンは甘い声で夜の約束をねだる。心臓が弾んで頬が熱くなり、ぷいと顔を背けた。
「…………もう、抜かずの六発とか、イヤだから」
「あんなに欲しがっていたのに?」
「そーゆーこと言うからイヤなんだよ!」
感覚が共鳴した相手には、いろんなことが筒抜けだ。
一週間ぶりに芸術院に顔を出すと開口一番、老師が「結婚式を挙げいッ!」と叫んだ。
「し、式ですか……?」
いきなりすぎる。そんな話、微塵も出ていないのだが。
ふさふさとした白い眉毛の下の眼力は、未だかつてないほど強い。老師の迫力にたじたじとなっていると、
「スピーチはわしがしてやる! 盛大な楽隊を率いてコンサートも開いてやるぞ!」
「えぇ……? 老師、いったいなにを……」
「セオよ」
声を詰まらせて老師が俺を抱擁した。
「……よかったのう。おまえさん、これでひとりじゃなくなるぞ」
老師の声に涙がにじんだ。鼻の奥がツンと痛くなって、もらい泣きしそうになる。
「俺……もう来ないでよろしいって言われるかと思ってました」
震え声でそう言うと、
「んなわけあるかい! ……おめでとう、セオや」
「……はい」
傍にいるエイダンが優しい笑顔になる。
俺は老師の背中をそうっと抱きしめた。
結婚式をひと月後に控え、俺たちはエイダンの実家がある領地を訪れた。
王都から馬車に乗ること数時間。実り多き豊かな森を擁する丘の上。そこにはタウンハウスよりも遥かに広い、壮麗な館が建っていた。
伯爵様は郊外に視察に出ていて、戻るのは夕刻になるという。この日は、エイダンの母君と三人でアフタヌーンティーを楽しむことにした。
厳しくて怖い人だと思い込んでいたエイダンの母君は、貴公子めいた風貌の美しい男型オメガだった。
名前はフラン。年齢は非公開だと言われた。
「非公開って…」と苦笑し、口を滑らせそうになったエイダンの腹に、フランさまは拳をめり込ませた。
「聞いておくれよ、セオくん。こいつはとんだドラ息子でさぁ。放っておくと木の皮まで齧りだすような、とんでもない幼児だったんだよ。しかも逃げ足が早いんだ。こらーって怒鳴っては首根っこ掴んで連れ帰ったもんよ」
「へ、へえ〜?」
以前エイダンが切なそうに語った子供時代の話とは、大幅に食い違っているような――。エイダンが俺にちらちら視線を寄越しては、脂汗を浮かべている。
「か、母さん! 昔の話はいいだろ。庭のベリーが豊作だとか、馬の子が生まれたとか、そういう普通の話をしてくれよ!」
「おまえね。セオくんの前じゃ、さぞかし格好つけてるんだろうけど、それ全部無駄だからな? 今のうちに命乞いしておきなさいよ。僕を捨てないでくれーって」
「うっ……」
母は強しだ。一瞬にしてエイダンが粉々に打ち砕かれている。面白すぎる。
「俺が砂漠の……異国の出身だというのは、気になりませんか?」
「まったく気にならないね」
母君はきっぱりと言い切り、美しい切れ長の目を瞬きさせる。そして紅茶の入ったカップを手に取った。
「……この国は、旅に出る人がさほど多くない。海は貴族が仕切っているし、国境のある山脈付近は災害が多く、道の整備まで国力を注ぎきれなかったからね。だけどそれもこの先、変わっていくだろう。知恵は磨かれ、技術は進歩する。私の息子たちが、そしてまたその子供たちが、きっと変えていく。道は整えられ、冒険にゆく人も増える。世界はもっと広がるんだ」
口角をあげて、にっこり笑った。ロマンスグレーの長い髪が優雅に揺れる。
「君の知っている景色をエイダンにも教えてやってくれないか? こんな食欲魔人でアレだけど、君の孤独やさびしさを食べ尽くしてくれるだろうさ」
母君は片手を胸に当て、もう片方の手でティーカップを掲げて言う。
「エイダン。セオ。幸せになるんだよ。二人に、心からの祝福を」
「フランさま……」
目頭が熱くなった。ここは君の居場所だよ、と言ってもらえたような、安堵感と多幸感が胸の内に広がっていく。
「ほらほら〜、私のことはお母さんって呼んでくれなくちゃ!」
三人の小さなお茶会は、とても楽しくて、とても温かだった。
◇◇◇────◇◇◇
久しぶりに訪れた墓地。墓石は長い間風雨に晒され、やわらかな色へと変貌している。
「男爵様……いえ、養父さん。帰ってまいりました」
俺を拾ってくれた養父の、墓参りにやってきた。
ずっと顔を出せずにいた。
男爵様が眠る墓地に俺が踏み入るのは、とんでもない冒涜に思えた。それは財産を騙し取られてしまったことへの申し訳なさゆえだ。俺は墓石にさえ会わせる顔がない。
ずっとそう思っていたのだが、エイダンに「僕を紹介してくれ」と懇願されて、ようやく訪れる決心がついたのだ。
エイダンとの結婚式を挙げて、五ヶ月。お腹の中には小さな命が宿っている。
男爵様の墓石の横には紫や白の野菊がそっと手向けられていた。養父は昔から村の人たちに慕われていたけれど、今もその気持ちは健在なのだということが見てとれて、胸が温かくなった。
「セオ様? セオ様でしょう? ……ああ、大きくなって!」
涙を含んだ女性の声がした。墓地の入り口から優しげな顔つきの老婦人が歩いてくる。
村を出たのは、財産を巻き上げられた十七のとき。あれから十年近く経とうというのに、まだ俺のことを覚えている人がいたのか。
「……養父の墓に花が手向けてありました。あれは、あなたが?」
「わたしだけじゃありません。みんな毎朝一輪ずつ花を摘んで持っていくんです。男爵様がいなければ、この村はとっくに終わってましたもの」
かつて洪水の被害に遭い、半壊状態となっていた村を、貿易商だった父が一から復興させた。このご婦人くらいの年齢の人は、そのときの恩を今も口にする。
「僕も、君の父君に感謝を」
「あら……そちらのお方は?」
「俺の夫です」
傍にいるエイダンの腕に手をかけて紹介した。
実はごく自然に「俺の夫」と言えるようになるまで、ガブに特訓させられたのだ。
老婦人は顔をくしゃくしゃにして微笑み、「おめでとうございます」と祝福してくれた。エイダンも満面の笑顔だ。嬉しさあまったのか、老婦人と別れたあとも手を離してくれない。
「……いつまで繋いでるんだよ」
「男爵のおかげで君に会えたんだ。僕たちの仲睦まじさをたっぷり見せてあげないと」
「大げさな」
「大げさなものか。セオ……砂漠の国からきたシャヒム。僕の番」
少し背を屈めたエイダンと視線を交わし、唇を重ねた。墓地だというのに、深く舌を差し入れて貪られる。軽く抵抗すると、ちゅっとわざとらしい音を立て、唇を甘噛みしてから、名残惜しそうに顔を離した。
「王都に帰ったら、キャマハド神の聖堂にもお礼を言いに行こうか。この地方の美酒でも土産に買っていくかい?」
「うーん……俺は、『神託にはもっと語彙力を駆使してください』って伝えたいかな」
――とりあえず同居してごらんなさい。
そんな神託からはじまった俺たちの人生。
俺とエイダンは手を繋ぎ、ふわふわした芝生の上を歩きながら、明るい道を目指して進んだ。
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