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第5話(side大和)

 伊織がおかしい。  白く染まりゆく道を歩きながらも意識は隣から逸らせない。伊織の柔らかな髪が水分を含んで重くなっていく。深緑色のマフラーから漏れる息は白く、鼻と頬は赤い。両手はコートのポケットに隠されている。冷たいのかな。触れられないことが、体温を分けられないことがひどくもどかしい。  雪が風に乗って吹きつけてくる。防ぐものは何もなく、体を縮めることしかできない。  デート、と言ったもののどこに行くかも何をするかも決めてはいなかった。ただ伊織と一緒にいられればそれでよかった。だから駅ビルの内側から灰色の雲が膨らんでいるのに気づき 「帰ろっか」  と口にしたのは自然な流れだった。「誘っておいて」とか「何も考えてなかったのかよ」とか何かしら文句を言われるのも予想した上で。それなのに伊織は「そうだな」とあっさり了承した。雑誌のことを言わなかったのを怒っているのか。それとも単純に疲れているだけなのか。  違和感を覚えながらも勝手に予定を決めてしまったので無理をさせたのかもしれないと思い、そのまま出口へと向かった。  駅構内を抜けたところで、視界を白いものが舞った。 「雪だ」  当然のように俺は伊織を振り返る。ふわりふわりと雪は絶え間なく落ちてくる。傘、とも言わず視線だけで要求すれば 「はいはい」  伊織が呆れたように笑ってから息を吐く。 「おじさん、飛行機大丈夫かな」 「時間的には大丈夫だと思うけど……伊織?」  リュックを探っていた手が何も掴むことなく戻される。 「……傘、忘れた」 「伊織が?」  驚きを隠せず、声が跳ね上がる。 「やっぱ疲れてるのかも」  ごめんな、と笑って伊織が歩き出す。髪にも肩にも白を染み込ませ進んでいく。  傘を忘れる、なんて些細なことかもしれないけど。伊織の言うように疲れていたからかもしれないけど。でも、あまりにも伊織らしくなくて。小さな違和感が大きな塊となって主張を始めた。  幼なじみのカン、とでも言えばいいのか。伊織が何かを隠している気がしてならない。内側に隠された部分を推測することすらできず、雪玉みたいに不安が膨らんでいく。俺には言ってくれないのだろうか。それとも俺が言わせないようにしているのだろうか。離れてしまうから、離れているから。だから口にしないのだろうか。ざわざわと心が波立ち冷えていく。今そばにいることが意味のないことにされてしまう気がして。 「伊織」  途切れることなく落ち続ける雪。柔らかなそれを重みのある声が追い抜く。 「んー?」  伊織は振り返ることも足を止めることもしない。目の前にいるのに。手が届く距離にいるのに。電話で話すよりもずっと遠く感じる。  濡れて色を深める髪。白く溶ける息。マフラーでは隠せない耳の縁は赤い。コートのポケットにしまわれた手はきっと冷たいのだろう。今すぐ問いかけたい気持ちをぐっと堪える。握ることも抱きしめることもできない今は、家に帰ることを優先すべきだ。 「寒くなってきたから早く帰ろう」  大きく踏み出した一歩で隣に並ぶ。 「……だな」  鼻を赤くした伊織からまたひとつ息が溶けていった。  昼間だというのに太陽の明るさは消え、周囲は灰色から落ち続ける白で埋まった。雪はどんどん勢いを増している。家に着くころには、サクリ、と靴裏が鳴るほど積もっていた。 「伊織、先に風呂入っちゃって」  棚から取り出したタオルを差し出す。 「俺は大和の後でいいよ」  小さく笑った声が震えているように聞こえ、視線が合わないことに気づく。細かな雫がパラパラと床に落ちる。マフラーを外した伊織がタオルを受け取ろうと伸ばした手を咄嗟に反対の手で掴んだ。冷たい。自分も冷えているはずだが、それ以上に冷たく、力を込めずにはいられない。引き寄せ、濡れたコートごと抱きしめた。 「ちょ、なに」 「……冷たすぎ」  濡れた髪が鼻先に触れる。低い温度とともに伊織の香りが伝わってくる。温まることを優先するなら、抱きしめるのではなくお風呂に入らせるべきだろう。頭ではわかっても離せない。見えない部分に積もった不安が自分を引きずり出す。冷たいからとか、風邪ひくからとか、そんな理由ではなく。ただ俺が伊織に触れたかったのだと、どうしようもなく求めていたのだと自覚する。  ずっとずっとそばにあった。当たり前に隣にいてくれた。離れるのはお互いのためで、ちゃんと納得していた。どうしようもない寂しさもわかった上で未来への約束をした。それでも、どうしても埋められないものは確かにあって。 「伊織」  腕をそっと緩める。顔を覗こうとするが、俯けられたままで見えない。けれど胸の中に折りたたまれた手がきゅっとダッフルコートのトグルを握っている。それだけで胸が温かくなる。離れたくない、と言われている気がして、緩めた腕にゆっくり力を込める。壊れないようにそっと。 「なんかあった?」 「……」  ないよ、とすら言わないことが答えだった。周りの期待に応えるのが当たり前で弱さを見せない。できないこともできないとは言わない。できるようにしてしまう。それが伊織だ。  でも俺には見せてほしいし、教えてほしい。じゃないと伊織にとっての自分が何なのかわからなくなる。 「……なんで、言わなかったんだよ」  わずかに掠れた声に問われる。湿り気を帯びた音。雪が内側まで沁み込んでいるかのような。けれどそれは熱を孕んでいて、真っ白な雪ではなく涙なのだとすぐに気づく。一瞬なんのことかわからなかったが、雑誌のことだろうと思い至る。 「それは」  さっき説明しただろ、と言いかけて言葉が途切れる。  ――なんで、言わなかったんだよ。  問われた言葉はそのまま、伊織に言いたかったことに繋がり、頭の中を回る。  同じ、だろうか。伊織も同じなのだとしたら。手を伸ばすしかない。意識しないように閉じ込めていた場所へ。自分が隠している部分を掬い上げるしかない。そうじゃないと、伊織も話してはくれないだろう。知りたいなら、見せてほしいなら、自分から差し出すべきだった。  そっと息を吸い込み、口を開く。 「本当は、ずっと、こわくて」  寒さではない。触れないようにしていた部分が震えている。それは誰にも言えなかったこと。  ずっと自由だった。バスケットをするのは当たり前のことで、試合に勝ちたいと、大会に出たいと思うことも当然だった。だけど、それはあくまでチームとしての思いが強い。自分の将来を見据えてやってきたわけではない。だから声をかけられたときに戸惑ったし、どうするべきか悩んだ。伊織に「続ける理由なんて『辞めたい理由がないから』で十分でしょ」と言われて、心が軽くなった。だけど、それだけではどうしても足りないのだと気づいてしまった。 「期待をかけてもらって、結果を求められて、すごく恵まれてるんだって思うけど、それ以上にやっぱこわくて。本当に俺にできるのかって考えちゃって」  期待してもらっている。目をかけてもらっている。だからこそ弱音は言えない。こわいなんて言えない。結果を出すために走るしかない。 「伊織がいたら、きっとすぐバレるんだろうなって思って……でも、いないから、だから」  どうしてすぐに言えなかったのか。結果がどうとか、期待がどうとか、本当はただの言い訳で。自分に自信がなくて、そんな自分を見せることができなかった。伊織には。伊織だから。  そばにいられない。話せる時間すら限られている。そんな中で弱音を吐き出すことはできなかった。どんなに言ってもそばにはいてくれないのだから。自分で乗り越えるしかない。  一緒にいられないからこそ楽しく過ごしたい。良い面だけを見せていたい。隠せてしまえるからこそ、隠したくなった。誰よりも好きだから。誰よりも心配させたくなくて。自分はちゃんと頑張っている、だから心配するな、そう伝えることしかできない。寂しさを前向きな言葉で封じ込めることしか。 「大和」  伊織がそっと顔を上げる。きゅっと寄せられた眉。赤くなった鼻の先。噛みしめるように閉じられた口。向けられた二つの水面は溢れる一歩手前。  ――ああ、やっぱり。  抱き締めることも、頭を撫でることもできない。吐き出した心はそのまま転がり、相手の中で石ころのように残る。それはどうにもできないままならなさと不甲斐なさを膨らませるだけだ。そんなもの渡したくない。伊織には綺麗な宝石だけを渡したかった。 「一人で泣くなよ」  閉じられていた腕が背中に回る。抱きしめ返された、その瞬間、感情は言葉となって零れた。 「……一人なんだから仕方ないじゃん」

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