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第7話(side大和)

 逃げるように飛び込んだ脱衣所で、母さんの声が再生される。  ――明日帰るから。  つまり、今日は伊織と二人ってことだ。  制服を脱ぎ、風呂場へと向かう。むわりと湯気に触れて体が緩む。と同時に先ほどまで伊織がここにいたことを思い出して顔が熱くなる。  今までも二人のときはそれこそいっぱいあったけど。あの夏の日を超えてからは初めてで。  意識せずにはいられなくなる。刻まれた記憶は今も体の奥底で燻り続けているのだから。    ***  伊織の生活が落ち着いた頃から、二週間に一度だけビデオ通話をするようになった。  聴覚も視覚も満たされるほどではないが伊織を感じられる。でもそれは五感のうちのふたつにすぎない。伊織の香りはわからないし、手を伸ばしても硬い画面があるだけ。味覚なんてもっと……と考えて視線が口元に向かう。柔らかな感触を、その奥にある熱を思い出し、胸を通り越してお腹の底が刺激される。 「大和?」 「あ、ごめん。ボーっとしてた」 「明日も部活だろ。そろそろ寝た方がいいんじゃない?」  ベッドに寝転がったまま見上げた壁の時計は深夜一時を示していた。両手に持っていたスマートフォンをヘッドボードの定位置に戻す。スマホリングを立て、枠の中の伊織と視線を合わせる。じわりと集まり始めた熱を隠すようにうつ伏せの状態で。 「そうだな。そうするわ」 「……うん。じゃあ、おやすみ」  一瞬、伊織が何かを言いかけたような気がしたけれど、「また明日な」と続いた言葉に同じように返した。  暗くなった画面をしばらく見つめる。  記憶は再生すればするほど濃く焼き付くのだろうか。それとも擦り切れて薄くなって補正ばかりが目立つようになるのだろうか。それでも想像よりは鮮明で。一度味わってしまった快感を体は覚えていた。  五感、味覚、伊織の味、と繋がってしまった単語があの夏の日を連れてくる。思い出に体が反応する。お腹の底、足の間、集まった熱が形を変えていく。このままじゃ眠れない。出してしまうしかない。ずっと伊織のことを思っていたのだから、そういう行為のときに浮かべるのは伊織しかいない。今まではそれでよかった。勝手に使うなと怒られそうだけど、伊織以外を思い浮かべられるわけないだろうと返せば何も言い返せないに決まっている。  うつ伏せの状態から横向きになる。ハーフパンツの薄い生地が持ち上がり、内側で閉じ込められた熱の存在を主張する。自分の体なのでわかりきっていたことだけど、ビデオ通話のたびに律儀に反応する素直さになんとも言えない気持ちになる。これも全部伊織が好きだから、と言ってしまえば可愛いものだけど。そんな綺麗なものだけでは出来ていないのもわかっている。  ヘッドボードの箱ティッシュの位置を確認してからハーフパンツの内側に手を入れる。下着の上からでもじわりと熱が滲むのがわかる。これはもう引き返せない。潔く下着も一緒にずり下ろす。包んでいたものがなくなり、無防備にさらけ出された性器へと手を伸ばす。 「……伊織」  声にならない息の中で名前を呼べば、記憶がより鮮明になる。目を閉じ、あの夏の日だけを意識に広げる。  石鹸の香り。伊織自身の匂い。吸い付くような白い肌。触れ合っている面から滲む汗。「大和」と呼ぶ声が震えていて。求め合うままに舌を絡ませた。唾液と体温が混ざり合って、水音が脳に直接響く。高まっていく熱の中で理性の糸を必死に掴んだ。伊織を傷つけたくない。自分の欲望以上に目の前の存在の愛おしさが大きかった。  ――……伊織。  初めて触れた場所なのに、伊織の体は俺を受け入れてくれた。指で(ひろ)げた場所がそれ以上のものを飲み込んでいく。快感を求めて傾きだそうとする体を「まだだ」と繋ぎ止める。欲望のままに駆け出してしまえたらどんなに楽だろう。けれど、それでは意味がない。これは二人で決めたことだから。二人で進みたい。寄せられた眉に伊織の苦しさが見てとれる。  大事にしたい。傷つけたくない。それなのにもう戻ることもできない。自分が伊織を苦しめているのだとわかっているのに、体はもう伊織を求めてしまっていて、内側を満たすのは喜びでしかない。伊織の熱に溶かされて自分の欲が滲みだす。  ――好きだよ。  ――……俺も大和が好きだよ。  返ってきた言葉に満たしていた喜びが弾け、泣きそうになる。同時にもうこれ以上は繋ぎ止められないと自覚する。糸が指の間をすり抜ける。 「……っ」  記憶よりも早く達してしまった体が余韻に震える。手の中で溢れた白い熱。重ねたティッシュで拭えば快感は寂しさに塗り替えられる。  知らないままだったなら。想像でしかなければ、こんな気持ちにはならなかっただろう。いつかを想像して、期待して、余韻に浸るだけでよかった。  でも、知ってしまった。想像じゃなくて、直接の記憶として触れてしまった。伊織の内側の熱を。体はまだ覚えている。覚えているからこそ、触れられないことがもどかしくてたまらない。離れていることを実感せずにはいられない。これはただの記憶でしかないのだと寂しさが込み上げた。    ***  ――というのが、先週までの出来事で。  今は画面越しではない伊織が目の前にいた。 「あ、おかえり」  ぶかぶかのスウェットを着て、本棚の前にしゃがんでいる。 「この漫画、新刊出たんだね」 「あ、うん。先月かな。持って帰る?」 「ううん、いい。すぐ返せないし」 「別にいいのに」  隣にしゃがみ、顔を覗こうとするがするりと躱されてしまう。 「あ、こっちも」  反対へと伸ばされた手。背けられた顔。意識しているのはバレバレで、じれったいのに、嬉しくなる。同じシャンプーの香りが鼻に触れ、伊織が自分の部屋にいることを実感する。  細く柔らかな髪と分厚いスウェットの隙間、細い首が目に入る。白い肌が内側から赤く染まり、引き寄せられるように顔を寄せていた。 「えっ」  ビクン、と体を跳ねさせた伊織が振り返る。一瞬だけ唇が触れていたうなじを押さえ、目を丸くする。じわじわと膨らんでいく熱が伊織の顔に広がっていく。 「伊織」  どうしようもないほどの愛しさが溢れて、止まらなくなる。 「……好きだよ」

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