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第9話
「……っ______!?」
余りにも突然なことに、声は出なかった。
いや、声なんて出せる暇さえなかったのだ。
背後から唐突に押されたせいでスメンクカーラーの体は、木舟から川へと落ちそうになったが、武官達が気付いた時には既に水しぶきの音が聞こえていて、辺りはざわめきを隠せずにいた。
「なっ…………スメンクカーラー!?」
しかしながら、辺りがざわつきを隠せずにいたのは何もスメンクカーラーが川に落ちたという単純な事実だけではない。
彼らが乗っている木舟の遠くの方から領域を犯されたせいで獰猛になっている母カバが水しぶきの音に反応し、水中でもがいているスメンクカーラーの方へ凄まじい速さで向かってきているせいだ。
更には今まで滅多に動揺を露にすることがないアクエンアテン王までもが、息子の名を口にしたかと思うと碌に躊躇せずに直ぐさま川へ向かって飛び込んだせいでもあった。
母カバは、スメンクカーラー達が乗っていた木舟から相当離れた場所にいた筈だった。しかしながら、一度カバの縄張りに入り、ましてや本気で怒らせてしまうと、その恐ろしさを発揮して人間や他の動物達に牙を剥く。
母カバはその巨体からは想像すら出来ないほどに、素早く移動してきて、最大限にまで開いた顎を獲物に見せつけながら全てを飲み込もうとするのだ。
あの開ききった顎に捕らわれてしまうと、遥かに矮小な人間など――ひとたまりもない。そもそも、元々この川は彼らの縄張りであり、地の理は向こうにある。
流木や岩など、お構い無しといわんばかりに一目散に恐怖ゆえに立ち止まってしまったまま己の方へと泳いでくる母カバの脅威に晒されるスメンクカーラーは早く泳いで他の舟へ向かわなくては――と頭の中では理解していた。
しかし、次の瞬間――身動きすら碌にとれないスメンクカーラは母カバの本能的な脅威とは別のことで驚きをあらわにする。
父アクエンアンが全く躊躇なく己の前に現れ、凄まじい速さで向かってくる母カバの前に両手を大きく広げつつ立ち塞がったからだ。
「今すぐ失せよ____スメンクカーラーには手出しさせぬ。我は現王アクエンアテン……神にも等しい我の息子に近づくとは何と罰当たりな……人ではないとはいえ、決して許されることではない」
カバが人の言葉を理解しているとは思えないが、絞り出すように言い放ったアクエンアテンの声色は彼が王になって以来久々といっていいくらいに激しい怒りが滲み出ている低音のもので、母カバに向けられるその目線は周りに控える誰もが無言になり立ち入る隙さえなく置物のように縮こまってしまうほど鋭いものだ。
暫くの間、辺りは静寂に包まれていた。
しかし、その鋭い目線を母カバではなく別の方へと向けたアクエンアテンの姿を目の当たりにした直後、再びスメンクカーラーにとって予想摺らしなかった出来事が起こる。
「グォォゥ____……!!?」
突如として呻き声をあげ、片目と耳下に槍が突き刺さった母カバが水面に浮かび力無く横たわる光景が目に飛び込んでくる。その呻き声で、ほんの僅かな時間とはいえ周りに浮かぶ空の木舟に振動が伝わるほど母カバの様は苦痛に悶えているのが分かる。
見る見るうちに、母カバが浮かぶ箇所の水面がじわじわと赤く染まっていく。
しかし、それも束の間____
「武官ホセは偉大なり、武官ホセは偉大なり……っ____」
今度はホセを称える神官達の賑やかな声がスメンクカーラーの耳に入ってきたため、さりげなくそちらへと視線を向ける。
すると、ぎらぎらと照りつける太陽を背にして槍を持った右手を高々と掲げ、普段よりも爽やかな笑みを浮かべながら此方を見つめ続けるホセの姿が目に入る。
「気高きアクエンアテン殿……それに、スメンクカーラー様。御二方がご無事で何よりでございます。この後の始末は、我々武官らにお任せください。カバの肉は、体に非常に良いと聞いておりますゆえ――見事、役目を果たしてごらんにいれましょう」
ホセは動揺を見せる素振りすらなく、殆ど息継ぎせずに流れるように言葉を紡ぐと、スメンクカーラーの細い腕を優しく掴み上げてから、そのまま異国の幼王ソジアクが乗っている舟まで丁重にその身を抱え上げながら移動するのだった。
スメンクカーラーは自らの縄張りと子供たちを守ろうとしたゆえに自身に襲いかかってきたであろう母カバが、ぴくりとも動かず水面に浮かぶ様を見て少しばかり罪悪感を抱きつつも、アクエンアテンとホセ――それに何十人もの神官、武官、奴隷達と共に神殿へと帰路につく。
既に橙に輝く夕日は沈み、空は暗くなりかけている。
弟であるツタンカーメンが立派な王の器となるか確かめる意味で行われる【カバ狩】――ヤークフとしての通過儀礼は、こうして幕を閉じるのだった。
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