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第12話
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数日後、スメンクカーラーはツタンカーメンと共に母であるキヤが住まう【離宮】を訪れる。
スメンクカーラーは離宮の内部へ一歩踏み入れるなり、湧き出る噴水の音に癒され、更には自らが過ごす神殿と違い身分の高さや低さなど関係なく、誰もがミセンタのうちの何処かから取り寄せたであろう上質な香水を身に纏っているのが分かる。
スメンクカーラーは神殿にいる神官達とは違って、ヤークフではない自らに対して優しく微笑み気軽に話しかけてくる数十人もの女官達に囲まれて心の底から安堵する。
(此処にいると、本来の自分でいられる気がする……だから、僕はこの場所が好きなんだ____)
そう思ったのも束の間、ふと隣にいる弟の異変に気が付く。
「ツタンカーメンよ……何だか、此処にきてからというもの足取りがゆっくりだが、大丈夫なのか?日々の疲れが溜まっているのでは____」
「ああ、兄上…………いや、大丈夫だ、こちらのことは心配なさらないでくれ」
そんなやり取りはあったものの、女官達から案内され、スメンクカーラーとツタンカーメンはある場所へ着いた。
そこは母のキヤが昔から愛して止まない場所で、神殿にいる父アクエンアテンから『神々に愛され【力】を全てとする、この神殿には必要のない場だ――ただし、女や女子供のいる離宮にはあってもよかろう』と許可され造られた【庭園】だ。
キヤは、噴水の縁に腰かけながら手に一輪の青睡蓮を持ち、その芳香を楽しんでいるように見える。
この一帯が、甘い花の香りで支配されているといっていいほど、この【庭園】には彩りの花で囲まれていて、スメンクカーラーの心を尚一層のこと癒すのだ。
「あら、久しぶりね……スメンクカーラー。それに、ヤークフまでいらっしゃるなんて____さあ、こちらにいらっしゃい」
つい先程まで青睡蓮の方に注がれていたキヤの視線が、ふいに自分達の方へ移ったことに気付いて、スメンクカーラーは満面の笑みを浮かべながら赤子のように真っ先にそちらへと駆けて行く。
父アクエンアテンとは常日頃から対面しているが、母キヤと会うのは実に五年振りのことであり、いくら神殿内の敷地内にある《妃宮》とはいえ広大が故に、神殿と妃宮との距離は途撤もなく離れている。
いくら血の繋がった母と子とはいえ、気軽に歩いて対面できる間柄ではない。ましてや、父アクエンアテンは【力】のない母キヤのことを一応王族と認めてはいるものの、心の底では【王という立場である自分には必要のない存在】だと思っているとスメンクカーラは確信している。
これは、母の面目を保つため誰にも――弟であるツタンカーメンや信頼のおけるホセにさえ話したことはないが、母が涙を流しながらこの庭園で体を横たわらせているのを見たことが一度だけある。
結婚したばかりの頃、父アクエンアテンからもらったという首飾りを眺めながら、嗚咽しつつ憂鬱を纏っていた母キヤ____。
その首飾りは青睡蓮の花を刻み、その絞り液と特殊な鉱石を混ぜ込み造られた高価なものでキヤは常に肌身離さず大切にしていた。
その唯一無二の青睡蓮の首飾りを丁寧な手付きで細く滑らかな首へかけると、母はまずスメンクカーラーを真っ先に胸元へ抱き締める。
どの時代にせよ、王族にも民からも敬愛を受け続ける母なる女神【ハトホル】の如く聖なる笑みを浮かべながらだ。
スメンクカーラーが鼻を近付けたせいで、亜麻糸で作られた衣服のくすぐったさが伝わってきたため、思わずくしゃみをしそうになってしまう。
そんなスメンクカーラーに気付いて、キヤの口元が僅かに緩む。
「母上……私は、先日催されたカバ狩りにて最大の獲物である母カバを仕留め損ねたものの――計三頭の子カバを仕留めました。父王アクエンアテンからは母カバを仕留め損ねたのはヤークフにとって最大の汚点だと叱責を受けたものの、私は全力でヤークフになるべく精進して参りました。むろん、これからも……努力して参ります」
先程まで、スメンクカーラーの髪を優しい手付きで撫でていたキヤの動きが途端に止まり、今度はツタンカーメンの方へゆっくりと視線を向けるキヤ。
「あら、まあ……そうですか。気高きヤークフよ……見事に役目を全うされ、ご苦労様でした。日々ヤークフとして精進するのは結構ですけれど、ここではそんな話は聞きたくはなかったですわ。ほら、お見えになって____ここでは、花は色付き《生》を受け、皆は安寧を感じているの。それに、つい先程からここにいるサシエも元気がないようですわ」
女神ハトホルが如き穏やかな笑みを浮かべなたまま、スメンクカーラーと接する時と同じように、明るい声色で母キヤから言われたツタンカーメンは普段の様子とは違って、どことなく動揺をあらわにしながら少しばかり俯いてしまう。
「も……っ……申し訳ございません。実は、今日は起きてから今まで体調が優れないもので……そのようなことにまで気を配る余裕がございませんでした」
母キヤへ謝罪の言葉を述べながら、ツタンカーメンの力強い視線が即座に母の側に仕える奴隷の女人サシエに突き付けられたことにスメンクカーラーは気が付く。
沢山いる女人奴隷のうちの一人でしかない幼女サシエに向けられるツタンカーメンの視線は、いつもに増して鋭いものだ。
「サシエ、あなたは下がっていいわ。いえね、私はこのような場でするような話ではないと思いますけれど、ヤークフには王からのご命令を果たす義務があるのですから、場所を変えてお聞きしましょう。私は、気高きヤークフとスメンクカーラーと共に部屋へ戻ります」
母キヤも、そのことに気が付いたためか、すっと立ち上がる。すると、サシエはツタンカーメンから向けられる視線の雨に気まずそうに俯きながらもおずおずとお辞儀してこの庭園から去って行くのだった。
慌てて駆けて行くサシエの後ろ姿を微笑ましく見守りながら、スメンクカーラーはツタンカーメンから些細な嘘をつかれたことに対して心の中にわだかまりを抱きつつも、庭園を後にし自室へと向かって歩いて行く母キヤの後へ着いて行くのだった。
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