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第13話
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母キヤの部屋に入るなり、スメンクカーラーは安堵感を抱く。
此処には、スメンクカーラーが心の底から美しいとか好きだと思えるものが沢山あるからだ。
例えば、机の側に置かれている何種類もの装飾品で彩られた鬘が飾られている棚があり、すこぶる興味を引かれるし、水色の顔料が目を引く壺に浸けられて日没に焚かれるキフィの香木の香りで心身が癒される。
更に、母キヤが椅子に座るなり数人の女官達がラバーブという弦を弾いて音を鳴らす楽器で演奏を始めてくれて歓迎してくれる。
「美しい歓迎を、ありがとう。でも、あなたたちは下がりなさい。この場はこれから張り詰めた空気になるでしょうから。今宵も、お疲れ様……明日も、また宜しくね」
母キヤは四人の女官に丁寧に言うと、彼女達が全員去っていくまで見送った。そして、先程とは打って変わって王妃としての義務を果たすべく凛々しい顔つきを浮かべながら改めてスメンクカーラーとツタンカーメンの方へ向き直す。
「それで____ああ、カバ狩りの話でしたね。ヤークフの成果は先程聞いたのだけれど、スメンクカーラーも参加していたのでしょう?成果はどうだったのです?」
「母上、私は……実はツタンカーメンと同じ数の子カバを狩ることができたのです。ああ、それから____」
ふと、スメンクカーラーは口をつぐむ。
『母カバに襲われかけていたが、父王アクエンアテンが身を呈して庇ってくれたのでございます』
そう、母であるキヤに報告しようとしたのだ。
だが、それをする前に傍らにいるヤークフの様子がどうしても気になって寸でのところで
、その後に続く言葉を呑み込んだ。
(ここで母上に全てを話すと、ツタンカーメンの心を深く傷つけるのではないだろうか____)
現にツタンカーメンは拳を固く握りしめ、微量ながらも出血するほどに強く唇を噛みしめつつ、体を小刻みに震わせて目には涙を浮かべている。
しかも、どうにかしてキヤの目に届かないようにそれを隠そうとしているのがスメンクカーラーには分かる。
「それで…………どうしました?」
「い……っ……いいえ、それよりも母上――あそこに積んである絨毯は異国から新しく取り寄せたものなのでしょうか?」
急に口をつぐんでしまったスメンクカーラーに対して母キヤは怪訝そうに尋ねるが、それを何とか悟られまいと部屋の中を見渡してみる。
すると、スメンクカーラーの目に何枚も重ねられてある見覚えのない絨毯を見つけたため、咄嗟に問いかけると母キヤの目線がそちらへと向かう。
その直後のこと______。
「アリ・ミ・アバーブ………!!」
突如として、部屋の隅の方から元気な声が聞こえてきてスメンクカーラーは飛び退きそうな程に驚き、片や隣にいるツタンカーメンは一瞬だけ体を震わせてから騒がしい声が聞こえた方へ鋭い目線を向ける。
《アリ・ミ・アバーブ》とは、悪戯を仕掛けた者が仕掛けられた者へ向かって言う挨拶のような声掛けだ。因みに、今は【力】しか信じていないような近寄り難い存在の父王アクエンアテンでさえ、今は亡き彼の兄であり前王であったトトメスから何度も言われてきた言葉らしく、かつてこっそり教えてくれたことを思い出す。
「あら、まあ……いつの間にか私の部屋に小さなお客さまが紛れ込んでいたようだわ。そうはいっても、怒っているわけではないのよ……アンケセナーメン。可愛らしい姿を見せてはくれないのかしら?」
母キヤが声をかけると、それから少しして一人の少女が、ようやく姿を現す。
目元に化粧を施しているキヤとは違って、まだ幼い面影が残るアンケセナーメンは、スメンクカーラーとツタンカーメンが生まれた頃から深く付き合いのある少女だ。
年齢は十に満たないとはいえ、将来美しくなるであろうことが既にその容姿から約束されている顔の整った少女だ。
まるで猫のようにキリッとした目鼻立ちはそこらの女官や奴隷達の憧れの的であり、普段から鬘を身に付けているキヤとは違い地毛で艶やか且つ真っ直ぐな髪の毛は腰あたりまで伸びている。
更に、肌から香る薔薇の香油が彼女の美しさを更に際立てている。
「どうか、このケセナをお許しください。キヤ様。ケセナは、どうしても、スメンクカーラー達を驚かせてみたかったの……でも、これでようやく夢がかなったわ」
アンケセナーメンはキヤに対して頭を下げ両目を閉じつつ額から鼻筋をすっと撫で、右手で左肩を三回叩き、その次に唇に指先を当てるという【目上の人物に対する謝罪】の動作をしてから、自らの心境を告げる。
しかし、スメンクカーラーは分かっていた。
キヤが事前に《アンケセナーメンが絨毯の影に隠れて此方を驚かす》という企みを知っており、あえて黙っていたことを____。
直接言葉にはせずとも、母のその表情がそれを物語っている。いつもは、きりっとしているはずの目元はいい意味で緩みきっているし、アンケセナーメン以上に此方を驚かしたことに対して満足だと言いたげな雰囲気をかもしだしている。
(そういえば……母は昔からこんな人だった____)
かつて母や女官達――更には幼なじみのアンケセナーメンと今以上に親密だった時を思い出して、安堵感を抱くとともに寂しさも同時に抱いてしまう。
生まれてきてから五年のうちは、ツタンカーメンと共に、この母がいる部屋にも足しげく通っていた。
それが変わってしまったのは、父アクエンアテンからの『これからは必要な時以外に女などと関わるな。むろん、必要のない時に離宮に出向くのも禁ずる』という容赦ない命令が下されたから____。
家族の絆という糸は、父のその一言で脆くも解れてしまったのだ。
父が、どれ程【離宮】を訪れていないのかというスメンクカーラーの疑問は、母から聞かずとも今の彼女が浮かべる《心ここにあらず》といわんばかりの憂いを帯びた表情で否が応にも分かってしまう。
「ねえ、スメンクカーラー。あたしね、書記達から面白い話を聞いたのよ。せっかく、ここに久しぶりに来たんだもの。少し聞いていかない____もちろん、ツタンカーメンも…………」
スメンクカーラーと母キヤの間に流れる微妙な空気を絶ちきってくれたのは、いつもに増して生き生きと語るアンケセナーメンの一言だった。
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