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第36話

      * * * ホセと別れた後で宮殿の廊下を歩いていると、予期せぬ人物とすれ違い、互いに頭を下げる。 本来ならば、その人物よりも上の身分に属するスメンクカーラーが頭を下げる必要などないのだが、今は喧しい神官もいないし一人きりということもあって、つい気が緩んでしまったのだ。 (この男の名は、確か……アイだったような_____) そんな中、アイがふいに口角をあげたことに気がついて思わず彼の肩に手をかけてしまう。 そのせいで、目と目が合わさることとなる。 「何か、御用でも?」 「今、お前は何故に笑ったのだ?一体、何がおかしい?お前はヤークフになる者に対して無礼だとは思わぬのか?」 すると、アイという男は一度怪訝そうに眉を顰め無表情になった後に再び笑い始める。今度は口角を僅かに上げる控えめな笑いではなく、高笑いに近いものだ。 その様が少しばかり続き、ようやく笑うのをぴたりと止めたかと思うと、今度は此方へ躊躇なく歩み寄ると唇と唇が触れ合うのではないかという程の至近距離まで顔を近付けてくる。 更に、アイはスメンクカーラーの目を覗き込む。 「…………」 「…………」 アイがスメンクカーラー対して何か言うことはなく、互いに無言のまま見つめ合うこととなった。 しかし、ふいに物陰から愛猫であるヌトべが飛び出してきたため、我にかえったスメンクカーラーはその隙にアイから離れる。 ヌトべを優しく抱きかかえ、本来の目的であるツタンカーメンの寝所の扉に手をかける。 「いけません……っ___早く、その場から離れてくださいませ。スメンクカーラー様…………」 スメンクカーラーは少し遠くの方から聞こえてくるアイの声かけに対して気まずさを感じつつも聞こえなかったかのように振る舞うと、そのままヌトべと共にツタンカーメンの寝所へと足を踏み入れる。 アイが入って来れないように、内側から木製の錠をしっかりとかけたことを確認すると、ようやく安心しきったのか体の力が抜けて、へたり込んでしまった。 ふと、ヌトべが手をぺろぺろと舐めてくる。 あまりのくすぐったさで意図せず笑ってしまうくらいには心に余裕ができたが、部屋の中の灯りは全て消えており、人の気配はまったく感じられない。 「ツタンカーメン――我が弟よ…………そこにいるのか?」 部屋の中は静まりかえり、微かな音さえ聞こえてこない。 床に座り込んだ後に、止めどなく押し寄せてくる【孤独】という不安から現実逃避するため、両膝をかかえながら幼い頃の無邪気だった弟と過ごした日々の思い出に浸っていた。 だが、ふいに先程までは感じなかった【何者かの気配】を本能的に察知したため、恐怖に耐えながらも、ゆっくりと立ち上がる。 「あ………っ____!?」 その時、ふいに抱えていたヌトべが勢いよく飛んでしまった。その拍子に、尻もちをついてしまう。 幸いにも痛みは大したことはなく、ここに弟がいないのであれば、すぐに自分も寝所へと戻って休むことにしようと思い直す冷静さを取り戻すことができた。 だが、手元の蝋燭を持つ手を左右に動かして辺りを見回してみても、どこにもヌトべがいないことに気付く。 そこまで広くはないツタンカーメンの寝所___。更に昔から武術の鍛錬以外にさほど興味を示さなかったせいで、生活を送る上で最低限必要な物以外は手元に置かなかったため、部屋の中は自分に比べて質素なものだからヌトべが隠れていそうな場所はすぐに確認できた。 だが、どこにもいないのだ。 そして、再び冷静さを失いかけているスメンクカーラーは石壁の前に立ち尽くすことになる。   (ここだけ………他の部分と何かが違う気がする___) スメンクカーラーは恐る恐る、石壁に手をつくと他の壁の感触と比べると妙な違和感を覚え、やがてそれが偽物の壁だということに気付く。 (ここだけ、熱に弱い素材で作られているみたいだ__いったい、どうして……っ……) 蝋燭の炎を長時間かざしたことで、見る見る内に壁の一部が柔らかくなっていき、遂に手で掘ることができるくらいに変化した。 変化が起きた壁の範囲は、さほど広くはないが、小柄なスメンクカーラーやツタンカーメンであれば潜れるくらいのものだ。 もちろん、ヌトべがこの中に入っていてもおかしくはない。 だが、それにしては妙だということにすぐに気付く。猫であるヌトべでは歩くことはできても意図的に壁に向けて蝋燭をかざすことなんてできないからだ。 そこで半ば強引とはいえ、気まぐれな愛猫は先に扉へ向かうとすぐに自分の寝所へと戻っていったのだろうと結論づけた。 一度、ヌトべのことは忘れて狭い通路を這っていくことにした。 (どうか、ここにいてくれ___ツタンカーメンよ…………) 遂に、スメンクカーラーの願いは神へ届く。 狭い通路を進み、少しすると奥に愛しい弟が横たわりながら穏やかな寝息をたてている光景を目の当たりにする。 この狭い部屋は、今まで過ごしてきた中で、一度も目にしたことがない。 (ここで過ごすことで……神官達から向けられる期待に答えてきた日々の辛さや、孤独に耐えてきたということか___) (私自身がヌトべと二人きりで過ごしてきて孤独を消し去ろうとしたように……ツタンカーメンにとって、この場所は誰にも知られたくなかった筈___) 「秘密の部屋…………」 無意識の内に、ぽつりと呟いてしまう。 辺りをよく観察してみると、異国から贈られてきた物が隙間なくびっしりと並べられているのが分かる。 かつて現王アクエンアテンが戦で勝利した後に他国の王から贈られてきた《絵画》やら《絨毯》、更には《宝石》やらが置かれているのが見えたが、その中でも特に目を引いたのは、先王トトメスが生前ツタンカーメンへ贈った品だ。 その時、スメンクカーラーは弟の背後に隠れるように立っていたのだが、今でもその時の光景をよく覚えている。 あの時のツタンカーメンは、今よりも生き生きとした様子で憧れの人物であった先王トトメスから《ブルーロータスの花輪》を受け取っていた。 そして、今____。 あらかじめ防腐処理が施されていたであろう《それ》は彼だけの秘密の部屋にて一番目立つ場所に置かれている。 『深い青は気高き王族の選ばれし者のみが所持し、身に付けることが許される特別な色だ。お前も、深い青のものを、いつか身に纏えるように精進しろ__よいな?』 幼い頃に、現王アクエンアテンが言っていたことを思い出して、同時に自身の不甲斐なさを自覚してしまうスメンクカーラー。 「だ……っ……誰かそこにいるのか!?」 その直後、突如として近くから奇妙な音が聞こえてきた気がして、慌てて目線をそちらへと向けるのだった。 横たわり幼子のように眠りについているツタンカーメンの背後に、見に覚えのない壺が倒れていることに気付く。 真っ先に疑問を抱いたのは、触ってもいないのに――そもそも自分と弟しかいない筈なのに何故それが倒れてしまっているかということだ。 (いや、やっぱり悪戯好きのヌトべの仕業じゃ………) そう思い直し、ツタンカーメンの背後を覗きこみ確認してみても、やはりヌトべの姿はない。 そして、スメンクカーラーは再び奇妙な甲高い音を聞いてしまい、遂には碌に立っていられなくなってしまう。 更に直後に、途轍もない目眩に襲われながら床に倒れ込んでしまうのだった。 『哀れなるニンゲンよ___キサマは現王の子だな?』 『ワレらは偉大なる存在……故に存分に敬うがよい』 『優越か、快楽か___それとも他の欲か……浅ましきニンゲンのキサマはワレらに何を望む?そして、何を差し出すというのか?』 「エジプト……の……未来が__」 「今よりも……より良くなるように…………」 先程からひっきりなしに大音量の耳鳴りと立っていられない程の激しい目眩に襲われたせいで、徐々に意識が朦朧としてきてしまう。   「この……目と………耳を神々に……差し出す__」  こんなことを、言うつもりなど到底なかった。 しかし、時既に遅く奇妙な甲高い音はやがて男女かさえ判別し難い複数の笑い声となりて狭い部屋に反響し、やがて完全に消え去ってしまうのだった。         * * *

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