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第37話
* * *
ふと、遠くの方から扉を叩く音が聞こえる。
【ザラビ・シマ】 ____。
ツタンカーメンが名付けたその場所は、幼い頃から周りの者達によって与えられ続けてきた重圧に対しての《逃げ道》であり、自らの精神を安定に保つための《秘密の部屋》でもある。
うんと年の離れている父や母は当然だが、幼い頃に理解者だと認めていた兄のスメンクカーラーにさえ、この場所の存在を明かしたことはない。
(じゃあ、いったい………誰が扉を叩いているというのだ……っ____)
深い眠りから完全に覚醒しきれておらず気怠そうにゆっくりと身を起こしたツタンカーメンは、先程から叩く音が鳴り止む気配の無い扉の方向を一瞥する。
そして、目頭を親指と人差し指で軽く抑えて溜息を吐くと渋々ながら立ち上がり、普段は巧妙に隠されている扉を開ける。
「な……っ_____!?」
その扉は内側から押すと開く形状になっている。
そのため、少し力を込めて押し開けた直後、気の緩みがあり油断しきっていたせいで、外にいた人物によって力強く手首を掴まれてしまい室内の床に勢いよく押し倒されてしまうツタンカーメン。
「…………っん………あ……っ……」
思わず、情けない声をあげてしまった。
余りにも突然の出来事に、『お前は誰だ』と聞きたいにも関わらず、押し倒されてしまった直後に馬乗りになられ、尚且つ口をごつごつとした骨ばった手で覆われてしまったため、碌に話すことすらできない。
この秘密の部屋には満足な灯りがなく、暗闇に目が慣れるまでには時間がかかる。普通の状態でさえそうなのだから、寝起きのツタンカーメンには抵抗する間もなく襲われてしまっていた。
「この………っ___歩く災厄め……っ……」
「今夜中に………終わらせてやる……っ___エジプトの幸福な未来を願って……」
男は凄まじい怒りを吐露しながら、胸ぐらを強く掴み上げてくる。男は手加減するつもりなどなく、そのせいで声を出すことすら困難を極め、相当な息苦しさを感じて苦痛で表情を歪めてしまう。
不思議なことに、このような非常事態にも関わらず頭は冴えきっており、まずは男が何者なのかを冷静に推理してしまう自身の思考回路にツタンカーメンは驚きを隠せない。
「いっそのこと……ここで……っ___」
少しばかり光が入ってきたため、ようやく何事かを叫びながら押し倒してきた無礼な男の正体を理解することができた。
男の名前はメレニといい、元々は神官付きの武将として王への忠誠を得て仕えていたものの、遥かに実力が高いホセと交代する形でその役目を終えるやいなや、今は身分の低い星詠み見習いとして仕えている者だ。
ツタンカーメンはメレニに対する怒りよりも、むしろ己の不甲斐なさを実感していた。幼い頃に父から『身も心も鍛錬しろ』と武術に励んでいたにも関わらず、肝心なところで、積み上げてきた《力》がまるで役に立っていないからだ。
そんなことを考えているうちに、自然と涙が溢れ出てくる。
更に徐々に顔が上気していき、半開きになった口からは言葉にならない悲鳴が漏れ出てくる。
「………っ____!?」
突如として、此方の胸ぐらを掴んでいた筈のメレニの力が弱まった。
(そうか_____)
(こいつ……………そういうことか___)
まず、ツタンカーメンは驚きながらも、なるべく冷静に彼の全身を観察してみることにした。
メレニの体に現れる、ある異変___。
それは、人間として存在する以上――極めて自然であり、尚且つ自らの意思では抗い難いものだ。
幸いなことに、真上から体を押さえつけられていても、ある程度は自由がきく部位がある。
それは、足だ____。
ツタンカーメンは、か弱い動物の如く心身共に困惑した素振りを見せながら、メレニの股間へと徐々に右足を動かしていき、やがて器用に足の指先を曲げると、そのまま絶妙な強さで彼の亀頭を掴んだ。
更に、そのまま足で擦っていくとメレニの性的欲求は高まっていき、やがて限界を迎えたためか、大きくビクッと震えた後に肩で息をしながらツタンカーメンの胸元から手を離す。
(こいつ………口ではエジプトの幸福のためだと偉そうなことを言っておきながら……っ___)
(結局は、汚らしい有象無象の人間でしかないじゃないか……っ____)
メレニという男の手が、胸から下へと段々と降りていく。
やがて、桃色に染まった突起を衣服の上から摘み上げる。
今まで自由を犠牲にしてまで培ってきた高貴で威厳を保つことが重要とされるヤークフではなく、兄であるスメンクカーラーのような、か弱い人間へと擬態するツタンカーメン。
側で過ごしてきた中で心の底で【羨ましい】という憧れの想い。そして【憎い】という侮蔑の劣情を抱いてきた兄であるなら、どのように反応するだろうか――と想像しつつ、人間の悍ましき本性を現したメレニの首の後ろに両手を回すと、
「や……っ……優しくしてくれ……頼む__」
興奮しきったメレニの耳元で囁く。
その時、ようやく招かれざる乱入者がもう一人いることに気が付いた。
先程とは違って、頭がはっきりとして目が暗闇にすっかり慣れているから、その乱入者が誰なのかすぐに理解する。
____ホセだ。
彼は、何も言うことなく――ただ、ひたすらにツタンカーメンの行動を監視しているのだ。
慌てて、メレニから逃れようと試みる。
だが、それを悟ってかホセは言葉は発せずに口をぱくぱくと何度か開け、此方に対して何事かを伝えようとしてきた。
この状況下では、明確にホセが何を伝えようとしてきてるのか理解しようがない。
そもそも、確かめようとすること自体、何の意味も見出さないだろう。
ただ、ある言葉が否が応でも頭に浮かんでくる。
『お前は、まだ逃げるつもりか?』
今よりも、ずっと昔――息が詰まるような辛い鍛錬の日々を送ることで身も心もぼろぼろになった時に父から容赦なく突きつけられた、あの言葉___。
威厳のある気高き王となるべく【力】を重視していた父が痺れをきらし、武将頭であるホルエムヘブを差し置いて、自ら槍を眼前に突き付け、あまりの気迫に体を震わせ怯えるばかりの幼い頃の自分へ言い放ってきた言葉を思い浮かべ、ツタンカーメンはホセが立っている扉の方から視線をさ迷わせる。
ふと、ある物がこのザラビ・シマには置いてあるままだということを思い出したからだ。
幸い、【欲情】という最も醜い願望に支配されきっている愚かなメレニには気付かれていない。
(そういえば____)
(あの時____)
ツタンカーメンは、ふと思い出す。
スメンクカーラーが新生ヤークフになるべく《サジェク》を行い、皆で町を行進する途中で民として生活していた元神官の男に襲われそうになった時のことを____。
あの時、半ば無意識の内に護身用として懐に隠してあった小刀に触れた。すると、自らの意思と関係なく――まるで内に秘めた己とは違う存在に操られたかのように、素早く男の攻撃を避けることができたのだ。
もはや、他の選択肢などなかった。
半ば無意識の内に、油断しきった男に気付かれぬように、懐へ手を忍び込ませると、小刀へ触れた。
____特に、何も起こらない。
(いや____たとえ、あの時に起きたことが気の所為であったとしても……このまま終わらせるつもりなどない……っ___)
そう決意をし、油断しきっているメレニの股間を蹴り上げ、そのまま勢いよく奴の左胸を突き刺してやろう――と覚悟を決めたツタンカーメンが睨みつけた直後のことだ。
唐突に、周りの空気が変わった気がした。
興奮しきったメレニの汚らしい喘ぎ声も、松明の炎が揺らめく音も一切聞こえなくなった。
それだけでなく、異様な程の寒気を感じてツタンカーメンは思わず身をぶるりと震わせてしまう。
更に奇妙なのは、この秘密の部屋に【水】は存在しない筈にも関わらず、水が滴る音が聞こえてきたことだ。しかも、一度だけでなく断続的に聞こえているが、注意深く耳を澄ませて聞いてみると、ある一定の法則性がその水音に込められていることに気付いた。
(これは…………かつて神官から嫌という程教わったムギア・マダではないか)
【ムギア・マダ】とは、とある異国に代々伝わる国民と異国民との間で和平を結ぶための通信手段というべき事象である。言語が通じなく意思疎通が困難だとしても、これを使いこなせれば互いの国の良さや課題点等を伝え合うことができた。
とある異国――《ドゥ・テオ》は【水】を異様な程に崇拝しており、国民には神秘的な力が宿るとされている。かつて、その《ドゥ・テオ》から来訪した男がエジプトの王女に見初められて晴れて王となり【ムギア・マダ】をエジプトの神官達に教えたことで、その後に王が天に召されるまで戦や飢饉といったエジプト全土の者に幸福をもたらしたと幾度となく神官達から教わった。
【ムギア・マダ】を行うのに必要なのは、途轍もない集中力と《ドゥ・テオ》の独特な宗教感を理解し否定せずに受け入れることであり、ツタンカーメンは幼い頃からこれを徹底的に神官達から擦り込まれてきた。
水の滴る音の長さと、音程の高低さ――それを聞き分ける集中力が必要だ。更に、集中し続けていくと滴る音にはそれぞれ《色》があるということに気付くのだ。
(幼い頃から今に至るまで兄上は……ムギア・マダを習得することができなかった___)
(だが、俺は違う………っ……まさに、今___特別になるんだ……っ……)
ふと、閉じた瞼の裏に自然と《朱》が浮かんでくる。
ツタンカーメンが、かっと両目を見開きながら戸惑いと凄まじい恐怖を露わにするメレニの左胸に小刀を刺すことはなかった。
すでに、ツタンカーメンは何が起こったのかを理解しきっていた。メレニの胸に自ら小刀を突き刺す必要などないということを――ムギア・マダを通じてはっきりと理解していたのだ。
背後に置かれていた槍の切っ先に左胸を深く貫かれたメレニは碌に声すら出せず、そのまま血に倒れ落ちて、やがて完全に動かなくなった。
皮肉なことに、その胸を貫いた槍はメレニがまだ優秀な武将として名を馳せていた頃に使用していたものであり、彼が武将としての立場を失った後で不必要なものだと判断したアクエンアテンから『やがて役に立つこともあるやもしれぬ。これは、お前がとっておけ』と渡されて保管していたものだ。
幼い頃から心の奥底で必死に押し殺してはいたものの渇望していた【力】をようやく手に入れ、快楽を伴う激しい喜びに打ちひしがれる反面、メレニの返り血で染まった体は小刻みに震え、何とかしてこの悍ましい現実から逃避しようと無意識のうちに後ずさってしまうのだった。
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