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第38話
「お……っ………俺は、何ということを……っ____」
「早く……っ……アメクに伝えなければ……っ……」
それでも、この時までは確かにツタンカーメンの心の奥底――少なくとも片隅には【良心】あるいは【理性】という感情があった筈だ。
無意識の内に、部屋から出て行こうと身を翻し、それから医師のアメクに救いを求めようとしていたからだ。
だが、それは呆気なく阻まれてしまう。
「この腑抜けめ………っ___よく、見よ……そして、よく聞くがよい!!」
今まで沈黙に徹していたホセが、部屋から出て行こうとするツタンカーメンの腕を勢いよく掴み、あろうことか屍と化したであろうメレニの胸元へ彼の顔を容赦なく押し付ける。
「新王となる器を秘めているのならば些細なことに動揺するのが極めて愚かなことと肝に銘じよ。それとも、所詮はその程度で終わる有象無象の内の一人でしかないということか?」
「それにツタンカーメンよ……っ……まだ、終わってはおらぬぞ」
ホセが、ようやくツタンカーメンの顔をメレニの胸元から放すと、ふとある事実に気付く。
メレニは既に物言わぬ屍と化したと勝手に思い込んでしまっていたが、先程のホセの行動によって彼はまだ微かに息をしているということに気付かされてしまったのだ。
「さあ____」
「成すべきことを、成すがよい………」
ホセは脂汗ひとつかかず、ましてや眉ひとつ動かさず冷静に、ある人物の声色と抑揚さを真似ながら新たな主人となりつつあるツタンカーメンの体を背後から優しく抱き寄せると、耳元で甘く囁きかける。
ここにきても、なおメレニはツタンカーメンの命を滅しようと震える手を伸ばしてくる。
自らの【生】の活力を信じ、悪あがきともいえる行為を行っているとはいえ、もはやメレニの命の灯は消えかかっている。
それを理解したツタンカーメンは必死で抵抗する彼の手を足蹴にして払うと、冷たい石の床に仰向けに倒れた彼の体の上にのしかかる。
「余の名は____トゥトアンクアメン」
「誉れ高き、新王の名――。醜きバーとなりて死者の国でオシリス神へ伝えるがいい」
そう言い終えると、微かに膨らんだメレニの胸を容赦なく踏みつける。それも、一度だけでなく何度もだ。
その度に半開きになった彼の口から柘榴のように鮮やかな血の塊が飛び散っていき、ツタンカーメンの顔を汚していくが、むしろそれこそが新王たる者の誇りだといわんばかりに彼の心は嫌悪どころか歓喜に満ちていく。
そして、完全にメレニは動きを止めて今度こそ物言わぬ屍と化した。
ここにきて、ようやくツタンカーメンは足の動きを止める。
「…………っ____!?」
その直後、背後からホセに抱き寄せられて安堵する。更には頭を何度も優しく撫でられたことで彼の大きい胸元に縋り付きながら、まるで幼子のように泣きじゃくってしまう。
ホセは、決してそれを責めたりはしない。
そして、こう切り出すのだ。
「実は、私にもずっと気にかかっている方がいるのです。聞いて下さいますか?」
「よい___。誰のことが気になっているのだ?」
「貴方は誰のことだと思いますか?」
蛇の如く鋭いホセの両目が、大粒の涙を拭ったせいで充血しかけているツタンカーメンの目を真正面に捉える。
その途端に、自らの弱みを見透かされた気になってしまったツタンカーメンは咄嗟に逸らそうとする。
「また、逃げるのですね?ここぞ、という時に肝心な時に逃げるのは………悪い癖です」
「確かに、ホセ…………お前はかつて父上から鞭打ちされても逃げはしなかった。もしや、お前の気になる相手というのは____」
「ええ……スメンクカーラー様でございます。しかし、あの御方は今やヤークフとなり神に近しい存在となり得てしまった。アクエンアテン様同様に___。私とて、貴方様と同じく辛いのです。しかし、私にはまだ力が足りない…………愛しい方に手が届かないという歯痒いお気持ち――身に染みておりますとも。それを理解できるのは……このホセだけにございます」
その言葉を聞くやいなや、ツタンカーメンは一旦ホセから離れる。そして、何を思ったか既に息絶えたメレニの元へ歩いていくと、その血を拭い、再びホセの元へ戻ってくる。
そして、少しの戸惑いもなくホセを押し倒した。更に、先程メレニの体を拭って真っ赤に染まる人差し指を自らの唇に当てて横へなぞる。
まるで、女人が紅を塗りたくるような仕草だ。
「その言葉___決して忘れるでないぞ………これからはトゥトアンクアメンの側近として立場を弁えると同時に、更に精進するがいい」
耳元で甘く囁きかけると、そのまま無防備なホセの唇へ赤く染まった唇を軽く押し付ける。
「新生なるトゥトアンクアメン王、全ては貴方の成すがままに……っ____」
身を起こしたホセは恭しく跪き、更にはツタンカーメンの両手に自らの手を添えると、確固たる忠誠を誓う。
こうして、《ザラビ・シマ》という呼び名の秘密の部屋での秘め事は不穏な空気を纏ったまま静かに終わりを告げるのだった。
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