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第一話 そよ吹く風は、君の匂いがして 6

ルドルフ 「……こやつは生きる意味も何も分からぬまま死んでゆくのだ。」 「いいえ、この子はきっと誰かを愛せるわ……そう信じているの。」  ……頑固な女房を持つと、いつもこう意見が食い違うものだ。その女はいつの時もこうして何の根拠も無い信仰を抱いている。  天使のような笑顔のその赤子にはエンジェルと名付けようと言って譲らぬ女に、それではまるで女子の名のようだと思いとどまらせた。アンゲイルと名付けたその子は女にとって初めての子であった。それはそれは大層可愛がっていたものだ、研究室から戻る度にその日の出来事を満面の笑みを浮かべて知らせに来ては、嬉し涙を指で拭き取っていた。リビングの柱には身長の高さを刻んだ傷が幾つも彫られ、その傷は段々と上に彫られていった。  死神界の頂点に君臨するケルスという選ばれし者だけがその座に座る事を許される組織。そこに身を置くという事はすなわち、いつ何時その命を狙われるか知れぬということ……それは決して本人だけではなく、親族や身内にもその危険が及ぶということ。 事が済んで何百年と経っていたのだ、もう誰もその事を覚えてさえいなかった。……だがそれはあくまでもこちら側の環境であり、あちら側はその間も地獄の中を生き続けてきたのだろう。愛する者達を失ったその者達の強い怨念は時を経ち収まるどころか、時を重ねるごとに増していったのだ。 死神界に強い恨みを持つ他種族から魔術で呪いをかけられたのは、ルドルフでもなければ女房でもない、彼らの子アンゲイルであった。 「この子だってきっといつか、愛を知ることができる。」  掛けられた呪いのせいで言葉を上手く発する事ができず、考えている事も理解がしがたい。女はそんな我が子に失望するどころか期待などをしている変わり者だ、ルドルフには到底その心理を理解する事が出来ずに居た。 時が経つにつれアンゲイルは物を掴む力も、口に入れた食べ物を咀嚼する力すらも日に日に失っていった。そしてそれに伴うように、女の顔からはいつしか笑顔が消えていった……だがそれでも女は決して信じることをやめなかったのだ。  その時のことを記した一行の詩が、今でもルドルフの本の中には残されているという。……本当か否か、それを知る者は今になってはたった一人だけである。  包帯を巻き終えた所に、扉を開け研究所に入ってきたのは報告をしに来たダニエルだった。山積みの血の付いたガーゼを腕に抱え、それを洗うために洗面所へと向かうルシファーがダニエルとすれ違い様に目で挨拶をした。 ルドルフ 「ウィリアムの調子はどうだ?」 ダニエル 「あぁ、一生懸命思い出そうとしてるみたいだな。さっき街に出てみたってよ、何も収獲は無かったらしいけど。」 ルドルフ 「体の不調は訴えていたか?」 ダニエル 「いいや……まぁ強いて言うなら頭痛くらいじゃねぇか?」 ルドルフ 「不迷虫を使った副作用だ、それだけはどうもできん。」  お手製の義足をはめて施術台から立ち上がるその様は中々こなれたものだ。ダニエルはいつものように水を入れた大きめのビーカーを液体燃料ランプの上にのせ火を付ける。先程ウィリアムの住む街で買って来た粗挽きのコーヒーの袋の口を開け、ルドルフが実験のために使っている湯煎用の小袋にサッサ…とそれを入れるダニエルは、こぼれたコーヒーの粉を指でそっと集めながらこう問い掛けた。 ダニエル 「あんたの足の具合はどうなんだ?……その義足、自分で作ったのか?」 ルドルフ 「あぁ。錬金術を知っていると、こういう場面で役に立つものだ。」 ダニエル 「そういうもんかね……」  まるで「便利な術だ」とでも言いたげにそう言ったルドルフは、こちらに助けを求めはせずに実験台の淵に掴まりながら自力で椅子へと移動をした。着席して早々に彼はペンを手に取り、分厚い本の決められたページを開くとそこに何やら小難しい方程式や呪文やらを書き始めた。……脳内が常に実験にまつわる事で一杯なのだ。その足が切られてからまだ一週間も経っていない……にも関わらず、そんな余裕があるのは流石ケルスだ、多少イカれている。 ダニエル 「母の愛とは愚かなものであり、その愛とは理解し得ぬ力を持つ……それ、呪文か?」  ダニエルからのそんな質問にルドルフが一度その手を止めたのは、ページの片隅にほんの一行だけ書かれた文字を見た時であった。 ルドルフ 「これは事実に基づいて書かれた詩だ。」  ……質問をする相手を間違えたようだ。そもそもだ、ルドルフに何か質問をしたところで、分かりやすい回答が返ってくると思った時点で間違いであった。 「やれやれ…」と小さめのビーカーを三つ隣に置き、大きなビーカーの中の湯が沸いてきたところでその中にコーヒーが入った小袋を落とした。じわりじわりと袋から滲み出る焦げ茶色が、無垢で透明なお湯を自らの暗闇へと染めていく……それを眺めるのは何とも言い難い、癒しに近い感覚だ。少し変わった淹れ方ではあるが味はそこまで悪くはない、こんな生活用品が微塵もない化学実験室でも工夫をすれば一服の友を生み出すことが可能なのだ。ダニエルがここへ来る度にこうしてルドルフとルシファーにコーヒーを淹れてやっている、この三人にとってはこれがいつもの光景だ。 ダニエル 「ルシファーの奴、さすがにショックだったんじゃねぇか?ってか事前に言ってくれる?そういう計画があるんだったら……何も言わずに急に足切り落としやがって……焦っただろ。」 ルドルフ 「あれがお前の足だろうがわしの足だろうが、足は足だ。我々が必要であったのは死神の腕か足一本、材料は無事に提供され、術も成功した。……それ以上に何の不満があると言うのだ?」 ダニエル 「そういう問題じゃねぇだろ……」  まるで「髪の毛を一本提供しただけ」のような言い方をするルドルフに、ダニエルは呆れて視界を上にした。 ルドルフ 「ウィリアムがああなったのはわしとネスの計画の食い違いであり、お前ではなく我々のミスだ。その責任を取るのは大人として当前のことよ。ルシファーにも告げずに居たのには理由がある。」 ダニエル 「………?」  ルシファーにも黙っていた理由?気になる言い回しにダニエルがコーヒーをいれる手を止めた。 ルドルフ 「あやつは最近……ちと変でな。」

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