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第一話 そよ吹く風は、君の匂いがして 7

 栓をして溜めた水の中に薬剤を適量流し入れ、その中に真っ赤に染まったガーゼを放り入れた。ガーゼが水を吸収し、水の色が段々と透き通った綺麗な赤色に変色していく。この赤い液体が何らかの損傷によって体外に流れ出る時、その者は「痛み」というものを感じているのだと……あの時あの娘が教えてくれたのだ。  ……忘れたりしないさ、僕は今でもしっかりと覚えているよ、アレン。 アレン 「……いたっ!」  「今日は私がご飯を作ってあげるね!」……一応名目としては「囚われている者」もしくは「人質」などか的確であろう。だが実際には全く自由を制限されてはおらず、アレンの監視は全てルシファーに任されていた。アレン自身も自分が逃げ出せばルシファーに罰が下る事を理解していたため、それを実行しようとは思わなかった。 いつもはルシファーが本に書かれた通りに鶏肉を料理してこの部屋に運んで来るのだが、その日はアレンがしつこく「私が作ってあげたい」とねだったために一度研究室に戻りルドルフの了承を得てアレンの右手に、そしてルシファー自らの左手に手錠をかけて彼女を炊事場へと連れて来たのだ。……言うまでも無く、開始直後にアレンは鶏肉ではなく自分の親指を僅かに切ってしまった。 ルシファー 「……もういい……帰レ。」  ……もういいよ、あとは僕がやるから。君を見ていると危なっかしい。 アレン 「違うの、今のはちょっと手が滑ったの!この手錠のせいよ!」  ……手錠は僕もしているけどね。  同じように包丁を持つルシファーは綺麗に規則的に、その刃を食材に落としていく。スト…スト…見ているだけでも満足出来そうな程気持ち良く食材が刻まれていく。一通り食材を切り終わり、水で傷口を洗い流すアレンの指を掴み一度じっとそれを眺めると、なんとルシファーはパクっと患部をくわえたのだ。 アレン 「………!」  冷水で冷やされほぼ感覚が麻痺していた指先が、ルシファーの熱い舌で溶かされるように温まってゆく……。ドクン…ドクン…。心臓が次第にその音を強めていくのを感じたアレンは、彼の口から指を引き抜こうとする。だがルシファーはがっしりと彼女の手を掴み決して放してはくれない。 アレン 「ちょ……生肉触ったから、菌が……やめなよ!」  ルシファーの濡れた舌が指に巻き付き、傷口に触れるとピキっと小さく鋭い痛みが走った。 きっと細菌や感染症の心配をしているのだろう。だがこれは生身の身体ではなく特殊な術で作り上げられた身体、病気になどかかりはしないのだ。……さて、そんな複雑な話をこの少し抜けた娘にどう説明しよう?ルシファーは色々と頭の中で言葉を探し、それを上手く一文字ずつ組み合わせた。 ルシファー 「コノ身体、偽物……病気にナラナイ……」 アレン 「あ、そうなんだ!」  ……通じたらしい。 アレン 「じゃあ、痛みも感じないの?」 ルシファー 「………イタミ?」 アレン 「うん。ほら私ここ……切っちゃったでしょ?だから私は今、痛いの。こうやって肌が切れたりすると赤い液体が出てね?その液体が出ると、私たちは痛いって感じるの。」  死神には痛覚があまり無いって昔にダディーが言っていた。その事かな?でもこの子にはあるのか……魔女だから?人間に近いから? ルシファー 「……アレンは今、イタイの?」 アレン 「うん、ちょっとだけね。」  その痛みとは、どうすれば取り除いてあげらるのだろうか?まだ血の滲み出るその手をルシファーは両手で優しく包み込み、自らの頬でそっとその手に触れながらアレンの顔を覗き込んだ。フードに隠されている彼の純白の髪の毛がさらっと前に垂れ下がり、ガラス玉のようなその瞳を薄く覆った。 ルシファー 「……大丈夫?」  ……他にしてあげられる事が思い浮かばないよ。ごめんね、アレン。 アレン 「うん、大丈夫だよ。」  こちらに向けられた無邪気なその笑顔………ドクン………特殊な術で作られた、病気にもなりはしないこの身体、痛みを感じることもあまりないだろう。……それなのにだ、胸が締め付けられる様なこの脅迫的な痛みは何と説明できよう?  ふと我に返り、シンクの中の赤い水に漂うガーゼを一枚掴んだ。傷口から出る「赤い液体」は「血」……ならば、この目から滴る「透明な液体」を何と呼ぶ?  鏡に映るルシファーの頬に、透明な謎の雫がスーっと伝った。

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