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第五話 額縁からの眼差し 4

「ねぇ、あなたは聞いてくれる?……私の悩み。」  額縁の中のその淡いピンク色をした頬を、コットンで優しく撫でるベンの脳裏にそんな言葉が響いたのだ。 ベン 「相も変わらずお美しい御方だ、私は一生あなたにお仕え致します。」  どうせいつも一人なのだ、ボソっと呟いた所で誰も聞いてはいまい。コットンの繊維が彫刻の突起に引っ掛かり、額縁が0.2ミリ程ずれてしまったのを直してみては少し後ろに下がり全体のバランスを確かめた。そんな時、背中から響いた若い青年の声にベンは振り返った。 ミイラ男 「その人、もしかしてジョシュのお母さん?」 ベン 「えぇ。エドワード様の御夫人のアナスタシア様でございます。」 ミイラ男 「綺麗な人だね……ジョシュに似てる!」  その女性がジョシュアの母親だと知ったクリスは興味津々に色んな角度からその肖像画を眺めた。目の色もそうだが、真っ黒な髪の色や顔全体の雰囲気がまさにジョシュアだ。  これは遠い昔、ジョシュアがまだこの世に生を受けるよりももっと昔の話になる。そこには産まれたばかりの赤子をあやす一人のヴァンパイアの女が居た。トントン…と優しく赤子の背中を叩いてげっぷを吐かせながら、頬に伝う涙を…誰も知らぬ秘密の涙をそっと指で拭っている。ここで少しばかり時間を頂きたい、なぜならこの女の物語をあなたにも知っておいてほしいからだ。  その異変には以前から気が付いていた。帰宅した夫の服から香る彼の物ではない香水の匂い……亭主を持つ女にとってこれは通らねばならぬ道なのだろうか。これだけの条件を前にして疑いを持たぬ妻など、この世に存在するのだろうか? 率直に聞いては上手くはぐらかされ、更にはこちらが探りを入れていることに気付かれて今後尚さら警戒されるようになるであろう。 「コパン」という名の小さな虫を使うと不貞を発覚する事ができるというのは誰でも一度は聞いた事がある、言わば都市伝説のようなもの。その虫の存在を認めたい理由はというと、不貞を確信したいが為に、赤ん坊をここに置いてきぼりにして夫の後をつけるのにも無理があるからである。諦めて過ごしたこの半年、それは生きた心地がしないものであった。 ベン 「エドワード様がお見えです、旦那様はただ今外出中だとお告げした所、どうやらアナスタシア様に御用がおありの様でして……客間でお待ちして頂いております。」  「今行くわ。」その返事を聞いたベンはそれをエドワードに報告するために先に客間に戻って行った。一際輝くイヤリングを両耳に飾り、首元にはずっしりとした豪華なジュエリーをあしらった。前髪を櫛でならし、涙で腫らした目元よりも宝石に目が行く様に誤魔化したのだ。彼を今晩ここへ呼んだ理由はただ一つ……。 エドワード 「今夜もあなたはお美しい。」  それは女性相手の決まり文句の挨拶なのか、彼はアナスタシアの手を取りそっと手の甲にキスをした。他愛もない話をしばらく続けた後、アナスタシアはコパンの事についてエドワードに尋ねたのだった。 エドワード 「えぇ。その虫は実在し、効果もあります。我々プロの始末人はあまり用いりませんが女性の探偵屋などは今でも時より使うと聞いた事が。」  これは嬉しい知らせだ、やはり今夜彼をここへ呼んで正解であった。 アナスタシア 「もう少しその虫のことを教えてくれないかしら?先日友人から聞いて、とても興味があるの。」 エドワード 「その虫は吸血する虫で、正式な名はCompound(コンパウンド)といって化合物という意味合いのその名の通り、吸血した際に口から出す分泌物が寄生先(ホスト)の体内に長くて役一ヵ月ほど潜伏することができ、その期間中にホストが不貞を働き、体内に異性の体液が吸収されると、その体液に分泌物がくっつき、化学反応を起こした分泌物が次第に青く発色する。この分泌物はホストの血液に交じり全身の血管を巡るため、皮膚に近い血管の青い反応を目視する事が出来る。浮気の疑いのある者に敢えてこの虫を寄生させてその者の肌の色を観察する……これが一通りの仕組みになっている。無論、反応が出ない場合すなわち不貞が認められなかった場合には、分泌物が発色する事は無いためにホストに気付かれることも無く、無痛で発色する以外に分泌物がホストの体内で危害をもたらすことは無く、潜伏期間が過ぎれば自然と死滅する、それがこの虫の素晴らしい特徴な訳だが……あなたからの次の質問が、その虫の入手方法ではないと良いが。」  眉を困らせて優しく微笑んだエドワード。さすがプロの殺し屋だ、情報量といい勘の鋭さといい、申し(ぶん)ない。虫を使い旦那の肌の色を確認した時、自分は後悔するのだろうか?このままこの気持ちを押し殺して何も知らぬ顔をして帰りを待つ日々の方が幸せなのだろうか?赤ん坊にとって……ライアンにとって、どちらが幸せな未来なのだろうか? シャンデリアの灯りに反射してギラギラと大袈裟に輝くジュエリーも何の意味も無い、この男を誤魔化そうと思ったこと自体が愚かであった。なぜなら、エドワードはもう既にアナスタシアをその胸にぎゅっと抱きしめていたからだ。大きな涙の粒が彼女の頬に伝うよりも、もっと早くに……。

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