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第六話 ここから先は、後戻りは出来ない
それは雨がシトシトと振り続ける湿気の多い肌寒い夜であった。屋敷の街灯が暗い夜の路面を眩しく照らしている。ガタ…とたった今停まったばかりの馬車の扉から出てきたロングコート姿の者が帽子を押さえて屋敷の玄関まで小走りをした。その者がドアをノックしようとかざした手は開かれたドアを前に見事に空振りし、危うく扉をあけた執事の顔を叩きそうになってしまった。
エドワード
「……おっとすまない、良く分かったね。」
セバスチャン
「貴方様ほどのヴァンパイアの気配に気づかぬ愚か者などおりましょうか。」
執事はそのシワくちゃな笑顔でエドワードに微笑み「ささ、どうぞお入りくださいませ。」と彼を屋敷の中へと招くと、客間ではなくアナスタシアの自室へと直接案内をした。開かれた扉の向こう側に山積みに荷が置かれているのを確認したエドワードは、彼女がこの屋敷を出て行く準備は既に整っているのだと察したのだ。
エドワード
「大丈夫、君が明日 目を覚ますのは温かいベッドの中だから。」
この男の口から出る言葉にはきっと何か不思議な力があるのだろう、なぜなら彼からのその言葉を聞いた瞬間に、昨夜からずっとこの胸を満たし溢れかけていた不安の霧 が一瞬にして吹き飛んでしまったのだから。
今その腕の中に居るのはどこぞの女なのだろう、ふとした瞬間に夫が思い出すのは誰の顔なのだろう?いつも片側だけが沈み、バランスの取れていないベッドで枕を夫に見立てて抱きしめた夜は数え切れない。エドワードはきっとその事を言っているのだろう。
富も名誉もその全てを手にした男の元へ嫁いだのは、もう歳であった両親を安心させたかったが為 。ロイドがその眼差しをこの心にまで届かせることは無く、その眼差しの中には常に幾つも他に合わせたい焦点があり、キラキラと輝いて光るのは親となった自分達の赤子に対する愛情ではなく、何かをこの目から背 けるために送られた宝石の数々であった。
スヤスヤと眠る我が子をこの身が持つ全ての愛で抱きしめたのだ、本当ならば貰えるはずだったもう片方の分まで、「ごめんね、ごめんね…」そう言ってぎゅっ…っと優しく深く、ライアンをその腕で抱きしめたのだ。
その光景はこの醜い世に存在するにはあまりにも美しく、清く凛々しく輝いてエドワードや執事の目には映った。さて、この腐った世にもし天使がいたとして、それは心を深く病んで明日の見えない者達や、闇の中で前を見失っている者の手をそっとすくい力強く握りしめてくれると同時に、暗闇から光の元へと導いてくれる……そんな天使という存在に母がいたとしよう、それはきっと彼女のような人だったのだろう。
エドワード
「容易に想像できるんだ、君と私にもきっと子供ができて、この子と四人で家庭を築くんだ。四人でいつでも散歩ができるようにどこまでも広い敷地を、そうだ噴水を建てよう、子供達が水遊びできるようにね。それから…」
ベン
「…お嬢様!」
慌てた様子で息を切らせながら部屋に入ってきたのは知らせを聞いたセバスチャンの一人息子のベンで、その困惑した表情からは唐突な出来事に思考が追い付かずにいることが伺える。
涙を流し何も言えずにいるアナスタシアと床に積み重ねられた荷物を目に、黙って俯き唇をくわえた。彼女がこの屋敷に嫁いできた時、その緊張を少しでも和らげられたらと淹れた紅茶、彼女が小さな笑顔を初めて見せた瞬間であった。
ベン
「ただ今、お茶をお淹れ致します。」
そう言って湧いた湯をコポコポとティーポットに注ぎ、震える手でそっといつもの花柄のティーカップに茶を注いだ。「ありがとう。」とそのティーカップを受け取るアナスタシアの手も又、カタカタと震えている。数え切れぬ程、ベンは毎日彼女に美味しいお茶を淹れ、身寄りも誰も居ないこの大きな屋敷という名の完全な孤独の中でも、この茶でベンは彼女のその不安を取り除いた。その全ては伝わっていただろうか、あなたは決して一人ではないと理解してもらえただろうか?最後に伝えたい事が山ほどあるのに、執事というこの身分がくっきりと足元に赤い線を引くのだ。
アナスタシア
「貴方無しでは生きてこられなかった。」
ベン
「……!」
いいや、もうこれ以上に望む事など在りはしない。
ベン
「この上ない……御言葉であります。どうか……どうかお元気で、アナスタシア様。」
堪え切れずに声をあげて涙を流し、深く深く、その場でお辞儀をした。そんなベンの姿にアナスタシアもまた大粒の涙を流し、椅子に座ったままお辞儀を返したのだった。泣きながら抱きしめ合う庶民の我々からすれば、貴族のそれは異光景なのかもしれない、だが彼らはそれを表に出さぬようにと教えられているだけであって、心の中は我々と何ら変わりのないものであり、悲しければ涙も流れるであろう。
セバスチャン
「さぁお急ぎください、出来るだけ遠くに行かれるのです。旦那様がすぐに使いを出すでしょう。」
執事たちが大急ぎで荷を馬車に積み込み終えると、最後の鞄を持ち上げたセバスチャンがエドワードの背中から彼を呼び止めた。
セバスチャン
「エドワード様。」
エドワード
「……?」
セバスチャン
「アナスタシア様を、宜しくお願い致します。それからアナスタシア様。」
彼女の腕の中で眠るライアンの頬を何度も何度も優しく撫でて言った、「どうかお幸せに。」心からそう願うセバスチャンからの言葉が真っ直ぐにこの胸に届き、それを受け入れたアナスタシアは潤んだ瞳で大きく頷いた。そしてセバスチャンは馬車の前で二人を見送るベンに、その鞄を押し付けた。
ベン
「いえ、荷はもう全て摘み終わったはず……」
そしてセバスチャンは大雨の中、大きな水溜りの上でも躊躇することなくビシャっと文字跪 き、びしょ濡れになりながらエドワードに懇願して見せたのだった。
セバスチャン
「どうか息子を貴方様の御傍に置いて下さいませ。どうか、どうかこの通り……」
きっと事が主に知れれば首が落とされる事を知っている上での行動なのだろう、こんな惨めな姿を晒してでも、寒さに手足の感覚が無くなってでも我が子を守り抜く、これが父親のあるべき姿なのだ。
エドワード
「老後の面倒もしっかり見てもらうとするよ、安心しておくれ。貴方には本当に世話になった……どうか無事でいておくれ。」
セバスチャン
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます。」
「ありがとうございます。」そう繰り返し呟く父の背中が小さく見え、その濡れた背中をここに残しておくことが悔やまれる。そんなベンに一喝したのもまた、父であった。
セバスチャン
「お前が茶を淹れてやらんで、他に誰がアナスタシア様の不安を取り除いてやれるんだ!死んでも執事である事を忘れるでない!!」
ベン
「父さん……育ててくれてありがとう、母さんにもそう伝えておいてくれ。」
その声は雨の音に紛れて消えてしまったのかどうかは分からない、セバスチャンはそのままその場で頭を下げている。走り出す馬車の小窓から見える父の姿が遠ざかり、小さくなって消えていった。
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