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第4話

 数時間パソコンの前にいるが、キーボードを打つ手がまったく動かない。完全に行き詰まっている。  統威は顔を覆って大きくため息をつきながら天井を仰いだ。思考がうまく回らず一文字も書けないのだ。進まない原稿に、焦りを通り越して怒りすら覚える。 「……くそ」  吐き出した言葉でさらに苛立ちが増した。前髪をかきあげ、一度自身を落ち着かせるためにゆっくり吐息を吐き出す。このまま何かが降ってくるのを待っていても無駄だということは理解している。息抜きになる何かを探さなければ、この状況はきっと変わらない。 (何かないか)  目を閉じて考え、統威は朝出かける前に類がしかけていった洗濯物のことを思い出した。単純作業で頭の中を整理するか――そう思い立ち、統威は椅子から立ち上がった。  乾燥が終わった洗濯物を取り出してリビングへと運ぶ。いつもは類が洗濯物をたたんでいるが、仕事で帰りが遅くなると言っていた今日くらい、代わりにやってやるのも悪くない。 (あいつは洗濯が終わったら適当にハンガーにかけておくタイプだと思ってたんだがな)  洗い終えたものを丁寧にたたんでいる類の姿を見て、初めは驚いたものだ。適当に渡してくれればいいと言ったのに、下着まできれいにたたまれ部屋に持ってこられた時はどんな顔をすればいいのかわからなかった。 『先輩って黒やグレーばっかり着ますよね。もっといろんな服着てみればいいのに。俺の見立てでは、意外と赤が似合うと思いますよ』  手を動かしていると類の言葉が頭の中で勝手に再生される。他にも考えるべきことがあるというのに、一緒に暮らした二週間でかなり心が類に侵食されているようだ。統威はたたんだバスタオルを重ねながら、首を横に振って頭の中をリセットしようとした。  そんな時、不意に玄関の方から音がした。ここ数日で聴き慣れた、類が鍵を開ける音ではない。 「……?」  誰かがこの家を訪ねてくるなんて聞いていない。慌ててスマホを見るが、類が早く帰ってくるなんて連絡もきていないようだ。統威は手に取っていた類のTシャツを洗濯物の山に重ねて置き、立ち上がった。  類が帰ってきたならすぐに「帰りました」と言って帰宅したことを告げるはずだ。しかし、物音も、気配も、類のそれではない。  ――何か様子がおかしい。  いつの間にか類の立てる音を聞き分けられるようになっていた自分に気味の悪さを感じながら、玄関の方へ向かう。  気のせいだったらいい。何事もなければそれでいい。  そう考えていた統威だったが、目の前の光景に絶句した。 「――誰?」  そこにいたのは女性だった。艶やかなロングヘアに白いフレアスカートの女性は、服飾品に興味のない統威でも分かるような有名ブランドのバッグを片手に提げ、脱いだパンプスを揃えていた。 「……同じ言葉をそのまま返すぞ。あんたこそ誰だ」  自ら名乗りもしない闖入者に、統威は敵意を隠さず問いかける。しかし、その場で静かに立ち上がった女性はその気迫に負けることなく、正面から鋭い眼差しを向けてくる。 「あなたまさか、類の……?」  汚いものを見る様な目で統威を睨む女性は、胸元で硬く手を握りしめた。その手には鍵が握られており、それがこの家のものであることは明白だ。ということは、類が鍵を渡しているのだろうか――こんな得体の知れない女に。統威は眉を顰めて女性を一瞥した。 「誰だと聞いているんだ」 「あなたみたいな人に名乗るつもりはないわ。類はどこ? 私は類に用があるの」 「……話にならん」  成立しない会話に苛立ちが募る。素直に類の居場所を教える気にもなれず、統威は黙って目の前の女性を観察した。頭の天辺から爪先まで、すべてが女性らしさというものを具現化したような姿。年齢不詳なメイクといい漂ってくる香水の匂いといい、なぜだかすべてが鼻につく。彼女は一体何者か。一瞬脳裏をよぎったのは類の交際相手という選択肢だったが、それにしては年が離れすぎている気がする。仕事の関係者なら、類の居場所は把握しているだろうし、ただの同居人相手にこんな態度をとる必要はないだろう。 「あんたと類がどんな関係かは知らんが、俺から話すことは何も――」 「ええ、そうね。私もあなたの話なんて聞きたくもないわ。あなたがなぜここにいるかなんて……想像もしたくない」  統威は突き放すような言葉を放ったが、女性も一歩も譲らない。それどころか、怒気を孕んだ声を統威に向けながら真っ直ぐに突き進んでくる。そして統威の目の前に立つと、鋭く睨みつけながら声を荒げた。 「類を返しなさい!」  腕を組み、「返すも何も」と口を開こうとした瞬間、堰を切ったように女性の口から言葉が溢れ出す。 「あなた、自分が類に何をしているかわかっているの? 真っ当に生きている子から未来を奪って楽しい? ……あの子から正しい生き方を奪わないでちょうだい。あの子の幸せを壊さないで!!」  その口調から、彼女と類の関係が見えてきた。言っていることの大半は理解できなかったが、この女性はほぼ間違いなく類の母親だろう。そう思って彼女をみれば、どことなく類と面差しが似ているような気もする。 「さっきからわけのわからん事をごちゃごちゃと……」 「あなたと一緒にいると類は一生幸せになれないの! あの子の前から消えなさい……ここにあなたの居場所はないわ! 私にはあの子を守る義務があるの。私はあの子の母親だから!」  やはり、と統威は目を眇める。類の母親だからといって態度を変えるつもりはない。統威は耳障りな金切声をぶつけられ、冷静でいられなくなってきていた。  自分の子どもを己の所有物か何かと勘違いしているこの母親を理解できない。理解したいとも思わない。統威は静かに、しかし怒りをこめて言葉を吐き出した。 「なるほど。あんたのような傲慢な人間は初めて見た」 「傲慢……?」 「正しい生き方とはなんだ? 類の幸せとはなんだ? そんなことは俺も知らん。生き方も幸せもすべて類自身が決める事だろう。ただ俺からすれば、あんたは類から自由を奪おうとしている強欲な支配者にしか見えん」 「……なんてこと!! 私は類のことを思って――」 「類のことを思っている? 笑わせるな。あんたは類の事を思っているように見せかけて、自分のことしか考えてない独善的な人間だ。反吐が出る」  吐き気を催すほどの怒りに眩暈がする中、目の前の類の母親を責め立てる。それが彼女の神経を逆撫でしていることを自覚していても、回る舌を止めることができなかった。 「ふざけないで!」  案の定類の母親は感情を爆発させ、提げていたバッグを統威に向かって投げつけた。統威は突然の衝撃によろめき、壁に背をぶつけてそのまま床にへたりこんだ。母親は何かぎゃあぎゃあと喚いているが、痛みでろくに内容が入ってこない。 「ってぇな……」 「あんたみたいなクズに何がわかるのよッ……! 出ていって! さっさと出ていきなさい!」  腕を掴まれ、女性とは思えないほどの力で玄関付近まで引っ張られる。抵抗しようと思えばできたかもしれない。しかし統威はそうしなかった。  暴れる母親に突き飛ばされ、床に膝をつく。無言で下から睨みつけると、母親は目に涙をためながら言い放った。 「類にあなたは必要ないの。消えなさい!!」 「……これ以上あんたと会話をするのは時間の浪費だ。言われなくとも出ていってやる」  よろめきながら立ち上がり、統威は乱暴にドアを開けて家を出た。その瞬間、すぐ後ろで玄関が閉まり、鍵がかけられる音が響く。  統威は苛立ちと淀んだ感覚に襲われながら、人の波に身を任せた。

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