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後編 お嫁になってやろうじゃないか

お嫁になってやろうじゃないか  高校二年からはもっともらしい理由をつけても祖父母の家へと帰省はさせてくれなかった。母と祖母の間に何かあったらしく、「勝手に行くことを許さない」と宣言されてしまったのだ。そんな両者のいざこざに息子を巻き込まないでほしいと思ったけれど、まだ親から手が離れていない身なので従うしかなかった。  とはいえ、緑禅のことを明日葉は忘れたことはなかった。彼と話した内容も、百鬼夜行の光景も、彼と交わした口付けのことも。  会いに行かなかったことを彼がどう思うだろうかと考えたけれど、気にしないかもしれないなと思った。彼は自分から会いに行けると言っていたからだ。会いに来てくれるかもしれないしとそんなことを考えながら、明日葉は高校生活を楽しんでいた。  それから高校を卒業し、大学へと入学が決まり新たな生活が始まろうとしていた時にそれは訪れた――明日葉は病魔に襲われた。    ***  真っ白で清潔な病室内にはベッドと医療器具があるだけで殺風景なものだった。明日葉に与えられたのは個室で、彼以外には誰一人としておらず静かだ。  明日葉はベッドから身体を起こして窓から見える景色を眺める。植えられた街路樹が紅葉に色づいて綺麗なものだが、明日葉の心は晴れない。  明日葉は病に侵されていた。病名はもう覚えてはいない、難しい名前だったことしか印象になかった。余命宣告もされてしまい、医者でも手の施しようがないと言われたことを知っている。両親は泣き崩れて息子に「ごめんなさい」と何度も謝っていた。  両親が謝ることではないと明日葉は思っている。丈夫に産んで上げれなくてと言って泣く母の姿は見ていて悲しくなったし、父の涙を堪える表情は忘れることができない。  二人がお見舞いにくると必死に明るく振る舞おうとする。それが見たくなくて明日葉は「毎日来ないで」と頼んだ、そう毎日来なくても自分は平気だからと。両親は辛そうにしていたけれど、息子の気持ちを察してか週に一度のお見舞いになった。  辛くないわけがなかった。どうして自分なんだろうか、まだ生きていたいなと思って泣いたりもした。けれど、それで病気が治るわけではない。医者はいろんな治療法を試してくれてはいるけれど、効果はあまりなく刻一刻と時間は過ぎていく。  日が経つにつれて明日葉は泣くことがなくなった。だんだんと、無気力になって何も考えなくなったのだ。ただただ、ベッドに寝そべっていて、時に身体を起こして窓の外を眺める、そんな何にもない日を過ごしていた。  何かを考えると辛さが胸にこみ上げてきて苦しくなる。それで吐くこともあって、極力は考えないように気にしないようにしていた。  幾日が過ぎ、身体が弱ってきているの感じた日の事だ、夢を見た。それは小学生の夏休み、緑禅と出逢った日のことだった。その夢を見てから明日葉は今までのことを振り返るように思い出を引き出しから取り出した。  緑禅の妖怪の話は不気味で少し怖かった。  追いかけっこをして、かくれんぼして。  百鬼夜行の列に紛れて村を練り歩き。  百鬼夜行の化け狐と化け狸の化け勝負は勝負になっていなかった。  他にももっとたくさんあって、思い出せばそれは温かくて楽しくて明日葉は胸を押さえた。  忘れることなんて一度もなかったけれど、病気になってから胸の奥に閉まっていた。思い出せば、死にたくなくなってしまうから。  もう病気は治らないのだ、だから死ぬことを受け入れなくてはならない。死んでもいいやと未練を残してはいけないのだ。だというのに、この想い出たちは許してはくれない。  生きたいと、どんなカタチであってもいい、また彼に会いたいと願ってしまうほどに。  どうして夢を見たのだろうか、こんな夢を見なければこんなことなんて思わなかった。 「どうして」  どうして。ふっと過る最後に会った夜の日の事、緑禅と口づけを交わした。そっと唇に触れて明日葉は「あぁ」と気づく。自分は彼のことを好きだった(あいしていた)のだ。  気づかなければよかったと明日葉は顔を覆う。こんな想いに気づかなければきっともっと楽に死ねたはずだと。枯れたと思っていた涙が溢れてくる。あぁ、まだ自分は泣けるのだなと明日葉は他人事のように思った。  こんな未来が待っていたのなら、緑禅になど会わなければよかった。出逢っていなければ、こんな感情を抱かず、苦しまず、悲しまず、後悔なく病で死ねたのだ。これも全て彼のせいだといない相手に八つ当たりする。  そんなことをしてもこの未練が無くなるわけもない。明日葉は嗚咽を吐きながらただただ、泣いた。病室に響く泣き声を聞くものは誰もいない。  夕陽が窓から射してもうすぐ夜になる。明日葉はぐずぐずと泣き声を上げながら腕に付けたブレスレットを見る。 『いつでも俺を頼りなさい』  緑禅の言葉がふと頭に過る。彼は言っていた、人生に疲れた時でも、悲しくなった時でも、死にたくなった時でもいい。辛くて耐え切れなくなったならば俺を呼べと。  それが今なのではないか、そう思ったけれど明日葉は呼べなかった。会ってしまったら、死にたくないと思ってしまうのが分かっていたから。  それでも心は会いたいと叫んでいる。死ぬ前に会って話がしたい、別れを告げたい、昔のように頭を撫でてほしい。  心は叫ぶ、会いたいと。身体は呼べと言っている。明日葉はぎゅっとブレスレットについた勾玉を握り締めた。 「こんなおれに会ってくれるだろうか、りょく兄ぃは……」 「会うけど?」  突然の声に驚いて顔を上げれば、窓の縁に緑禅が座っていた。昔と変わらない姿は間違いなく、彼だ。綺麗な長い黒髪が外から吹く風に靡く。  驚きに明日葉が固まっていれば、「呼んだのはお前だろう」と緑禅は笑った。 「え、まだ……」 「会いたいと思ったらそれは呼んでいるということになるさ」  緑禅に「会いたかったのだろう?」と問われて、明日葉は頷いた。会いたかったのだ、自分は彼に。そんな嘘の無い明日葉に緑禅は「素直な子だ」と微笑む。 「俺は嘘はつかん。お前が呼べばすぐに駆けつけるさ」  会いたくないだなんて一度も思ったことはないと緑禅に言われて、明日葉は彼のことを信じ切れていなかったことに気づいて恥ずかしくなった。そんな様子に気づいてか彼は気にしてはいないといったふうな態度をする。  それが彼の優しさであることを明日葉は知っていたので、また泣きそうになった。今の自分にその優しさは身に沁みる。 「泣くな、泣くな。俺はお前の傍からは離れんよ」 「でも、おれ、もうすぐ……」 「知っていたさ」  明日葉が告げずとも緑禅は知っていたようで「見えていたさ」と呟いた。その様子に明日葉は気づく、もしかしたら彼は口づけを交わしたあの時から知っていたのではないかと。  どうして言ってくれなかったか、それは未来を気にして生きてほしくなかったから。何をやってもこの日に自分は死ぬのかと辛く悲しく思ってはほしくなかった。だから、言わなかったと緑禅は話す。  これもまた彼の優しさだ。それが正解だったのかは分からないけれど、それでよかったと明日葉は思った。知らないでいたから高校生活は楽しいものだったから。 「なぁ、明日葉」  窓の縁から降り立って明日葉に近寄ると緑禅はそっと頬に触れる。 「俺の嫁にならないかい?」 「だから、おれ……」 「死のうが関係ないさ」  お前が死のうとその魂は形を成す。魂さえあればあやかしとなって妖界へと連れていくことができる。緑禅は何の問題もなさいと言って優しく頭を撫でた。 「元は人間だった妖怪というのは多いものさ」 「そう、なの?」 「座敷童やろくろ首なんかがそうさ。あまりの無念に鬼になる者だっている。だから、死んだとしても俺にはなんの関係もないんだよ」  お前を妖怪にすればいいのだからと緑禅は軽く言った、それはまるで明日葉の心配を拭うようで。  じゃあ、別れることもないのかと明日葉は思ったけれど、不安があった。どうして、自分に此処まで優しくしてくれるのだろうかと。 「お前ね、俺は明日葉を愛しているんだよ。優しくするのは当然だろう」  明日葉の不安を察してか緑禅はもう一度、言う。いざ、愛していると言われると明日葉は自分の気持ちに気づいてしまっているので動揺してしまった。それは表情にも出ていたようでくすくすと笑われてしまう。 「妖怪でも一目惚れってするもんなの?」 「するよ。俺がしたんだから」 「そっか……じゃあさ、どうして無理矢理にでもお嫁さんにしなかったの?」 「できない決まりだからだよ」  いくら力がある妖怪でもその世界には決まりがある。相手の同意がなくては妖界へと招くことができないと。だから、緑禅は無理強いすることなく何度も明日葉に聞いてたのだ。  そういう決まりもあるのかと明日葉は納得しながら緑禅を見つめる。お面のせいであまり表情が分からないけれど、なんとなく焦っているような気がした。 「じゃあさ、おれがこのまま何も返事しないで死んだら嫁として連れていけないってこと?」 「そうだよ。だから、俺は聞いているんだ」  緑禅は言う、俺はお前を手放したくはないと。傍に居てもっと話がしたいし、遊んでいたい。手を繋いで散歩をしたい、百鬼夜行紛れて一緒に笑い合いたい。ずっと、そうずっとそうやって過ごしていきたいと話す緑禅の声は少しばかり震えていた。  失うかもしれない恐怖というのが彼にもあるのかもしれない。不安で押しつぶされそうだけれどそれを悟られないようにしているようで、緑禅の想いの重さを感じた。  愛されているのだ、自分は。 「あのさ」 「なんだい?」 「また百鬼夜行が見たいな」  化け狐と化け狸の化け勝負がまた見たいと言って明日葉は頬に触れる緑禅の手を取った。 「一緒にさ、いてくれる?」 「もちろん」  死にたくないなと思った。  まだ生きていたいし、もっと遊びたい。なんでもない日を楽しんで、時に暇をつぶして、笑っていたかった。  それに彼ともう二度と会えなくなるのは嫌だった、愛していたから。 「いいよ、お嫁さんになるよ」  そっと触れるだけの口づけを交わして、緑禅の腕に明日葉は抱かれた。「離れるものか」と耳元で囁かれて。  そうして明日葉はこの世を旅立った。

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