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第2話 夕闇のカフェテラス
広いカフェのオープンテラスの一角、黒髪の青年がスープをすすっていた。
無造作に伸びた艶 のある黒髪を時折耳にかけながら、ひらり、ひらり、とスープを口に運ぶ。注文の品はスープだけのようである。
周囲にはその青年をちらちらと盗み見る視線もあった。
というのも、青年の目が紫色だったので。
青年の透き通るような白い肌や美しすぎる顔立ちは、紫の瞳と相まって、見る者に言い知れぬ不安感を与えた。
青年はどこか、人外めいていた。
ここは「白鳩亭」という名の王都最大のカフェである。
昼間、青空市の喧騒に活気付く王都の城下町は、夕暮れにはまた別の趣の人いきれとなる。カフェに明かりが点り、酒場が開店するのだ。
赤く染まった空の下、「白鳩亭」にも灯が点されていた。
黙々とスープを口に運ぶ青年の背後では、常連の中年男達が話に花を咲かせていた。
「グレアム様の護国騎士団がまたムジャヒール帝国を破ったってよ!史上最年少の護国騎士団長でこの破竹の勢いだ」
うわくちびるにビールの泡をつけた男が興奮気味に語り、ソーセージをフォークに突き刺した男が返す。
「護国騎士団?なんだっけそれ」
「お前、酔っぱらってんな!この国で護国騎士団を知らないやつなんていねえよ!貴族身分じゃない選抜騎士で形成される、王直属の精鋭部隊だよ」
「つまりどういうこった」
「ああもう、とにかくグレアム様はとんでもなく有能な騎士様ってことだ」
「なんだ、そんなこたぁ分かってるよ。世界一の魔道剣士様だ。ムジャヒール帝国の妖術使い百人をグレアム様一人で殲滅したそうじゃないか」
そこに別の男が割って入る。
「いやいや、俺は妖獣百体と聞いたぞ」
「あの邪教帝国の魔の手からこの王国が守られてるのも、グレアム様のおかげだな」
「ああ、まったくだ。南のユゴール公国がムジャヒールに陥落したときはついに聖教圏壊滅かと思ったが、我がランバルト王国はグレアム様のおかげで持ちこたえてるな」
ここランバルト王国を含む北の聖教圏諸国は、南の異教の大国ムジャヒール帝国と、長きに渡る戦を繰り広げていた。
聖教圏諸国は、帝国の執拗な侵略行為から、必死に国土を防衛し続けている。何十年も続く戦である。
「グレアム様に守られてるのはランバルト王国だけじゃない。この国は今、聖教圏の最南端、ムジャヒールとの戦の最前線だ。グレアム様はこの最前線で、聖教圏の国々全てを守ってらっしゃるんだ」
「ありがたや、ありがたや」
そこに、黙って新聞を見ていた男が、素っ頓狂な声を出した。
「おいおい、昨日この国に『影の目』が現れたってよ!」
「なんだって!」
同テーブルの男達がどよめいた。「影の目」、それはある魔道暗殺者の呼び名である。
聖教圏諸国で、様々な人間が「影の目」に暗殺されていた。
名将と誉れ高かった屈強な将軍も、数多くの魔道書をしたためた老練の魔道士も、帝王と呼ばれた闇組織の頭領も。畏怖されてきた強者すら簡単に殺されるので、人々は震え上がった。
話題になるのは有名人だが、誰かしらに恨みを買ったらしい無名の人々も殺されていた。
依頼された相手は必ず殺す。
この恐ろしい暗殺者は、活動の場である聖教圏を超えて世界にその異名をとどろかせていた。
不気味な怪物姿と、残酷な殺し方の噂と共に。
「誰が殺されたんだ!?」
「エスポール商会の会長だってよ」
「あの富豪がやられたのか!まあ敵は多そうだが」
「ああ恐ろしい。ターゲットにはなりたくないもんだ」
口ひげの男がわざとらしく身を震わせる仕草をした。
「お前もあんま女遊びばっかしてると、どっかの女に依頼されるぞ」
「おいおい、やめてくれよ。ああグレアム様が影の目を殺してくださればいいのに」
「はっはっは、なんもかんもグレアム様頼みかい」
「だって警察が無能すぎるんだ。ああグレアム様、影の目のような悪魔を退治してください」
口ひげの男は神に祈るように手と手を合わせた。
その時、紫眼の青年がすっと手を挙げた。
しかし青年の元に、なかなかウェイトレスは来なかった。若いウェイトレスたちが青年を見て見ぬふりをしたために。だが青年は苛立ちも見せず、ただ静かにまっすぐ、手を挙げていた。
やがてある一人のウェイトレスが、青年の挙手に気づき近づいて来た。
金髪をひとつで結んだ、リーサという名の美人ウェイトレスだ。彼女もまだ若いと言える外見だが、この店の勤務が長いベテランだった。
リーサは笑顔で青年に問いかけた。
「お呼びですか、お客様」
「会計をしたい」
まだスープは半分ほど、残っていたが。
「かしこまりました。オニオンスープおひとつですね。六百マルツになります」
青年は代金をテーブルに置き、席を立った。
リーサは代金を前掛けのポケットにしまい、半分残ったスープの皿を手に取った。そして厨房に向かおうとした時。
めまいに襲われた。
ぐらり、と体が揺らいだ。
リーサはスープを、そばに座っていた口ひげの男の体にぶちまけてしまった。
「うわっ!おい、なにすんだ!」
「申し訳ございません!」
リーサは男の前にしゃがむと、慌てて布で男の服を拭き始めた。
「あーあー。びしょびしょだよ、きたねえなあ」
「大変失礼致しました!」
リーサは泣きそうな顔で、必死に男の服を拭く。口ひげ男はふいに好色そうな顔つきになった。
「いやいや濡れてるのはシャツだけじゃなくてズボンもだろ。ちゃんと拭いてくれよ下も」
男達が下卑た笑い声を立てた。
「おっまえ、また病気が出たな!」
「ほらほら拭いてくれ、股のあたり」
口ひげ男が、しゃがむリーサの頭を鷲づかみにした。
「っ……!」
リーサが顔を強張らせる。
その時、ほっそりした手が伸びてきて、口ひげ男の腕をつかんだ。
「んあ?」
口ひげ男は不快そうにおもてを上げ、自らの腕をつかむ者の顔を確認した。そして若干の怯みを見せる。
相手は、紫の眼をした青年だった。
一瞬怯んだが、しかし、相手の貧弱そうな体型と少年とも青年ともつかない若い容姿を確認し、笑う。
「なんだ、紫眼のガキが俺になんか用か?」
青年は懐からすっと紙幣を三枚出し、男に差し出した。
「それは私が飲み残したスープだ。私が全て飲み干しておけばそのようなことにならなかった。私のせいなので、詫び賃を払う」
「えっ」
男は面食らった顔をしつつ、リーサから手を離してその紙幣を受け取った。紙幣の額面を確かめ、口笛を吹く。
「三万マルツ!気前いいじゃねえか」
別の男が不安そうな声を出した。
「おいおい、やめとけよ紫眼の金なんて、盗んだ金かもしれねえぞ。そうじゃなくても絶対、汚い金に違いねえ」
口ひげ男はにやけ顔で紙幣をポケットにつっこんだ。
「まあいいじゃねえか、金に色はついてねえ。底辺人種らしい殊勝な心がけ、褒めてやるぞガキ」
青年は無表情のまま背を向けると、無言で立ち去って行った。
すっかり機嫌のよくなった口ひげ男ははしゃいだ声で言った。
「よしもう一軒回ろうぜ、次は酒場だ」
◇ ◇ ◇
リーサは石畳の通りを走っていた。
既に赤い夕空は青紫の色味を帯びて、夜空へと変りつつある。
店長に事情を話し、店から一時、抜けさせてもらった。店長にはついでに「お前一度病院に行け。この間もふらついてたじゃないか」とたしなめられた。リーサは曖昧な笑顔で頭を下げた。
息を切らして走ったリーサは、前方に目標の青年を見つけ、ほっとする。
「あ、あの!」
大声で声をかけると、青年はぴたりと歩みを止めた。こちらを振り向く。
「ああ、あなたか」
「あの、先ほどはありがとうございました。私のせいですみません」
「いいえ、あなたは何も」
「お金、お返しします!い、今すぐは無理ですが、必ず……」
「やめて下さい、どうかお気になさらないで下さい。私があの男に詫びたかっただけですから」
「いえ、本当に必ずお返ししますので!」
リーサの真剣な様子に、青年は困ったように笑った。
「では、いつか」
リーサは安堵したように微笑んだ。そしてちょっと躊躇ってから、口を開く。
「お客様は、よく夕闇の時間にカフェに来て下さいますね」
「ああ、ちょうど店じまいをする時間なので」
「お店を……?」
「ええ、しがない薬屋を営んでおります」
「親御さんが経営してらっしゃるんですか」
「いいえ、私が一人で。私は見た目ほど若くありません、あなたと同い年くらいでしょう」
「まあ、そうなんですか!」
リーサは今、二十七だった。忌人 の中には、歳の取り方が普通の人間と違う種がいるというが、紫眼もそうなのかもしれない。
「お一人で薬屋さん、もしかしてご自分で調合を?」
「ええ、一応」
「驚きました、魔道士様でいらっしゃったのですね」
「魔道士なんてとんでもない。薬の調合くらいしか出来ませんよ。ところであなたは……」
青年はどこか遠慮がちに何かを尋ねようとしている。
「なんでしょう?」
「あなたはいつも、私にまで笑顔で接して下さります。紫眼である私のことが恐ろしくないのですか?」
リーサはにこりと笑った。
「お店にはいろいろな種族の方がいらっしゃいますから。皆よいお客さんです」
「そう言っていただけると救われます。あなたはとてもよい人だ」
青年は紫の目を細めた。
それはとても不思議な表情だった。
笑っているようでもあり、何か別の感情を隠すための表情のようでもあり。
「あの、お名前をお聞きしてもよろしいですか」
「サギト。サギトと申します」
「サギトさん。今度、薬屋さんに寄らせてくださいね」
「ぜひいらしてください。お待ちしています。ルイスさんはまだお仕事の途中でしょう?どうぞお戻り下さい。わざわざ、ありがとうございました」
そしてサギトは丁寧に頭を下げると、青い宵の闇の中にまぎれて行った。
リーサはその背中を見送り、なんと感じのよい人だろうと感心した。
そしてなんと綺麗な人なのだろう、とも。
黙っている姿を見るだけでは少し恐ろしさもあったが、面と向かって話してみれば、吸い込まれるような美貌の青年であることに気付かされた。
この国の多くの者が、忌人と見ると犯罪者と決めてかかるが、そんなはずはない、とリーサは思っていた。
こんな美しく優しげな人が、罪など犯すわけがない。
その時ふと、リーサは疑問に思った。
そういえばこちらは名乗っていない。なのになぜサギトは、「ルイス」というファミリーネームを知っていたのだろう、と。リーサというファーストネームならともかく。リーサのファミリーネームを知っている人なんて、店長くらいのものだ。
ともあれ、仕事場に戻らなければならない。
リーサはすぐに疑問を忘れ、踵 を返した。リーサはどんなに体調が悪くても、働けるうちは働いてお金を貯めておきたかった。
これから生まれてくる、小さな命のため。
◇ ◇ ◇
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