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第3話 影の目

 道端の茂みでリーサは嘔吐した。  ここのところ毎日、仕事帰りに嘔吐している。悪阻(つわり)というものがこれ程辛いものとは知らなかった。  喉を焼くような汚物を吐き終わると、リーサは口を拭い、下宿先のアパートへと帰っていく。  狭い自室にたどり着き、ふうと息をついた。時刻はもう夜の十時を回っていた。  小汚いベッドに腰をかけ、まだ目立つほどはせり出していない腹をさすった。  平民の立場で貴族の手つきになり、身ごもった。  彼女は一人で子供を産み、育てようとしている。  王都ではよくある話。いや古今東西、どこでもよくある話だろう。とは言え二十七にもなって何をやっているのだと、人は笑うだろうか。  笑われても構わなかった。彼女はあの悪名高い女たらしの子爵を、それでも愛していたから。  傍目にどれほど不幸で愚かな女に見えようと、彼女は今、幸せだった。女手一つで愛する人の子を育てていく。お腹の子供は、きっと彼女の孤独を埋めてくれるだろう。  自分自身を鼓舞するように、意思の強そうな口をぐっと引き結んだ時。  部屋に異変が起きた。  部屋の影が、蠢いたのだ。  最初、ゴキブリかと思った。たくさんのゴキブリが四隅から這い出てきたのかと。だが虫ではなかった。  影、あるいは闇、としか言いようの無いもの。テーブルの下から、ベッドの下から、タンスの裏から。部屋中の影という影が、部屋の中心部に寄り集まっていく。  リーサが青ざめる。 (なに、これ)  幻覚かと思った。疲労のあまり、妙な幻覚を見ているのかと。あるいは夢か。  呆然と眺めているうちに、影はどんどん集合し、縦に大きく盛り上がった。  真っ黒な巨大な影の塊が、目の前にあった。 (夢よね?夢なのよね?)  リーサは恐怖に震えながら、ベッドの上にへたり込み、後ろ手をついて後ずさる。  巨大な影の塊は空間で蠢きながら形を変えた。それはやがて、一つのはっきりとした形となる。  人型だった。  リーサはごくりと唾を飲み込み、まさか、と思う。 (影の目……?)  かの魔道暗殺者「影の目」は、影の中から姿をあらわす、という話を聞いたことがあった。  人型の影が、色彩を帯び、実体を持った。  リーサの目の前に、身の丈二メートルは越すだろう怪物がいた。  リーサはひっと息を飲んだ。噂通りのその姿に。  怪物は赤黒いビロードのローブに身を包んでいた。フードの中の大きな顔は灰色でシワだらけ。悪魔のようなかぎ鼻と、耳まで裂けた大きな口、口の中には剥き出しの歯ぐきとギザギザの鋭い牙。髪は白く、長く、縮れていた。  そして、目は影に隠れている。  目のあたりにだけ靄のような影がかかっている。  ゆえに、この怪物は「影の目」と呼ばれている。 (夢よ夢よ夢よ夢よ!影の目なんて、やっぱり夢だわ!だって私は)  リーサは誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。誰かに(ねた)まれるような幸運に恵まれたことも、勿論ない。  こんな自分を殺して何になるのか。ありえない、だからこれは夢だ。  影の目が左腕を伸ばしてきた。金属でできていた。銀色の骨のような手。五本の指はかちゃかちゃと金属の擦れる音を立て、鋭利なナイフのように青白く光った。  リーサはベッドの上、背中を壁にぴったりつけて、ハアハアと荒い呼吸をあげた。 (夢、これは夢、誰が私を殺したがるっていうの!)  だが。  その時ふいに、一つの名前が、一つの心当たりがリーサの脳裏に雷光のようにひらめいた。  お腹の子の父親、ルーランド子爵サーネス・ドルトリー。  すっと血の気が引いていった。衝撃に身を震わせる。あなた、なのか。  怒りと悲しみが、恐怖を凌駕し激烈な勢いで膨張した。そしてはじけ飛ぶ。  リーサは血を吐くような思いで、怪物に叫んだ。 「依頼人はドルトリー卿なの?私があの人の子を宿したから?いやよお願い助けて、私はあの人に迷惑なんてかけないわ!誰にもあの人の子供だなんて言ってないし、これからも一生言わない!一人でこの子を育てるし、二度とあの人に会うつもりもないわ!だからお願い、殺さないで!」  金属の左手がリーサの肩を掴み、引き寄せ、固定した。 「いやっ!お願いたすけてドルトリー卿!私、死にたくな……」  金属の右手が、リーサの胸を貫いた。  大量の血が飛び散った。ベッドも壁も真っ赤な染みに汚れた。  影の目はリーサの体から右手を引き抜いた。恐怖と絶望に歪んだ顔で、リーサの亡骸がベッドにうつ伏せに倒れる。  影の目の体が、再び色彩を失っていく。  赤黒いローブも、銀色の手も、灰色の顔も、黒く塗りつぶされ、影へと戻っていく。  黒砂糖が溶けるように、影の塊は崩れる。影たちは、部屋の四隅へと戻っていった。  あとはただ、一人の女の穴の空いた遺体と、血まみれの狭い部屋だけが残された。 ◇ ◇ ◇  癖のあるブロンドの髪をうなじまで伸ばした、見目麗しい子爵は、屋敷の中の隠し部屋でワインを嗜んでいた。  特定の商人や仲間の悪友貴族達と、悪巧みをする為の部屋。地下の隠し部屋とはいえ、テーブルとソファ、グラスを揃えた小棚もあり、十分にくつろげる。  子爵の名はサーネス・ドルトリー。社交界で数々の浮名を流してきた男である。齢三十三歳。まだまだ若々しく、その眉目秀麗な容姿は十年前と変わらず、女たちを夢見心地にさせる。  サーネスは報せを待っていた。待つと言っても吉報であることはわかりきっているので、特に気がそぞろというわけではない。ようやく胸のつかえが取れる清々しさに、一人で祝い酒を飲んでいるのだ。  隠し部屋の影が、寄り集まり始めた。 (来たか)  サーネスの唇が、にやりと弧を描く。女たちには決して見せない、まことに品の無い笑みだった。  目前に集合した巨大な影から、怪物が生じた。  サーネスは立ち上がり、両腕を広げ、歓迎の意を示した。 「お疲れ、影の目!あの女は殺せたかい?」 「ああ、殺した」  その大きく避けた口から声が発せられる。獣の唸り声を思わせる、低く不気味な声だ。 「良かった!もちろん成功を信じていたよ」 「証拠を見せよう」  影の目は銀色の手をサーネスに伸ばした。サーネスの顔が引きつる。 「い、いや『証拠見せ』は私はいらない、君がやり遂げたことを疑ってなどいない」 「駄目だ、これが私の段取りだ。省略はしない」 「うっ……」  観念して目をつぶったサーネスの頭に、影の目の銀色の手が乗せられる。  途端、サーネスの脳内に、リーサの最期の映像が鮮やかに展開された。  死ぬ直前の言葉。それは影の目への、いやサーネスへの命乞いだった。影の目がそれを無視して胸を貫く。そして最後、血で染まる壁やベッド。  銀色の手が頭から離れた。  凄惨な映像から解放されたサーネスは、はあはあと息をつき胸を抑えた。額から大量の冷や汗が吹き出していた。  だが、やがて落ち着きを取り戻す。汗をかきながらも、サーネスはにやりと笑った。 「よくやってくれた」 「報酬を寄越せ」  差し出された銀色の手のひらに、サーネスは金貨がずっしり入った巾着袋を乗せた。影の目は巾着袋を握りながら言った。 「あんな街娘、私に依頼するようなことではあるまい。そこらの暴漢でも雇えばいいものを。金の無駄遣いだな」 「娘ではないさ、もう三十目前の年増女だ。念には念をいれたかったんだ。とても大事な時期なのでね。せっかく王女様を落としたのに、あんな小汚い女のせいで縁談が取りやめになったらどうする?」  サーネスは、さる王国の第三王女との婚約が決まっていた。それはサーネスのような弱小貴族にとって破格の縁談であった。全てサーネスの、口説きの手腕と根回しによるものである。  影の目は興味なさそうに、ふんと鼻を鳴らした。 「さすがだった、影の目」  影の目の大きな体が、色を失っていく。その姿が影に溶ける。  別れの挨拶もなく、影の目は去っていった。  サーネスは大きく安堵の息をついた。  ソファにその身を沈めた。しばらく放心したように天井を見つめていたが、ふっと笑うと身を起こし、グラスに新たなワインを注いだ。  祝杯だ、と思う。  今宵の酒は実にうまかった。 ◇ ◇ ◇

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