3 / 35
第3話 影の目
道端の茂みでリーサは嘔吐した。
ここのところ毎日、仕事帰りに嘔吐している。悪阻 というものがこれ程辛いものとは知らなかった。
喉を焼くような汚物を吐き終わると、リーサは口を拭い、下宿先のアパートへと帰っていく。
狭い自室にたどり着き、ふうと息をついた。時刻はもう夜の十時を回っていた。
小汚いベッドに腰をかけ、まだ目立つほどはせり出していない腹をさすった。
平民の立場で貴族の手つきになり、身ごもった。
彼女は一人で子供を産み、育てようとしている。
王都ではよくある話。いや古今東西、どこでもよくある話だろう。とは言え二十七にもなって何をやっているのだと、人は笑うだろうか。
笑われても構わなかった。彼女はあの悪名高い女たらしの子爵を、それでも愛していたから。
傍目にどれほど不幸で愚かな女に見えようと、彼女は今、幸せだった。女手一つで愛する人の子を育てていく。お腹の子供は、きっと彼女の孤独を埋めてくれるだろう。
自分自身を鼓舞するように、意思の強そうな口をぐっと引き結んだ時。
部屋に異変が起きた。
部屋の影が、蠢いたのだ。
最初、ゴキブリかと思った。たくさんのゴキブリが四隅から這い出てきたのかと。だが虫ではなかった。
影、あるいは闇、としか言いようの無いもの。テーブルの下から、ベッドの下から、タンスの裏から。部屋中の影という影が、部屋の中心部に寄り集まっていく。
リーサが青ざめる。
(なに、これ)
幻覚かと思った。疲労のあまり、妙な幻覚を見ているのかと。あるいは夢か。
呆然と眺めているうちに、影はどんどん集合し、縦に大きく盛り上がった。
真っ黒な巨大な影の塊が、目の前にあった。
(夢よね?夢なのよね?)
リーサは恐怖に震えながら、ベッドの上にへたり込み、後ろ手をついて後ずさる。
巨大な影の塊は空間で蠢きながら形を変えた。それはやがて、一つのはっきりとした形となる。
人型だった。
リーサはごくりと唾を飲み込み、まさか、と思う。
(影の目……?)
かの魔道暗殺者「影の目」は、影の中から姿をあらわす、という話を聞いたことがあった。
人型の影が、色彩を帯び、実体を持った。
リーサの目の前に、身の丈二メートルは越すだろう怪物がいた。
リーサはひっと息を飲んだ。噂通りのその姿に。
怪物は赤黒いビロードのローブに身を包んでいた。フードの中の大きな顔は灰色でシワだらけ。悪魔のようなかぎ鼻と、耳まで裂けた大きな口、口の中には剥き出しの歯ぐきとギザギザの鋭い牙。髪は白く、長く、縮れていた。
そして、目は影に隠れている。
目のあたりにだけ靄のような影がかかっている。
ゆえに、この怪物は「影の目」と呼ばれている。
(夢よ夢よ夢よ夢よ!影の目なんて、やっぱり夢だわ!だって私は)
リーサは誰かに恨まれるようなことをした覚えはない。誰かに妬 まれるような幸運に恵まれたことも、勿論ない。
こんな自分を殺して何になるのか。ありえない、だからこれは夢だ。
影の目が左腕を伸ばしてきた。金属でできていた。銀色の骨のような手。五本の指はかちゃかちゃと金属の擦れる音を立て、鋭利なナイフのように青白く光った。
リーサはベッドの上、背中を壁にぴったりつけて、ハアハアと荒い呼吸をあげた。
(夢、これは夢、誰が私を殺したがるっていうの!)
だが。
その時ふいに、一つの名前が、一つの心当たりがリーサの脳裏に雷光のようにひらめいた。
お腹の子の父親、ルーランド子爵サーネス・ドルトリー。
すっと血の気が引いていった。衝撃に身を震わせる。あなた、なのか。
怒りと悲しみが、恐怖を凌駕し激烈な勢いで膨張した。そしてはじけ飛ぶ。
リーサは血を吐くような思いで、怪物に叫んだ。
「依頼人はドルトリー卿なの?私があの人の子を宿したから?いやよお願い助けて、私はあの人に迷惑なんてかけないわ!誰にもあの人の子供だなんて言ってないし、これからも一生言わない!一人でこの子を育てるし、二度とあの人に会うつもりもないわ!だからお願い、殺さないで!」
金属の左手がリーサの肩を掴み、引き寄せ、固定した。
「いやっ!お願いたすけてドルトリー卿!私、死にたくな……」
金属の右手が、リーサの胸を貫いた。
大量の血が飛び散った。ベッドも壁も真っ赤な染みに汚れた。
影の目はリーサの体から右手を引き抜いた。恐怖と絶望に歪んだ顔で、リーサの亡骸がベッドにうつ伏せに倒れる。
影の目の体が、再び色彩を失っていく。
赤黒いローブも、銀色の手も、灰色の顔も、黒く塗りつぶされ、影へと戻っていく。
黒砂糖が溶けるように、影の塊は崩れる。影たちは、部屋の四隅へと戻っていった。
あとはただ、一人の女の穴の空いた遺体と、血まみれの狭い部屋だけが残された。
◇ ◇ ◇
癖のあるブロンドの髪をうなじまで伸ばした、見目麗しい子爵は、屋敷の中の隠し部屋でワインを嗜んでいた。
特定の商人や仲間の悪友貴族達と、悪巧みをする為の部屋。地下の隠し部屋とはいえ、テーブルとソファ、グラスを揃えた小棚もあり、十分にくつろげる。
子爵の名はサーネス・ドルトリー。社交界で数々の浮名を流してきた男である。齢三十三歳。まだまだ若々しく、その眉目秀麗な容姿は十年前と変わらず、女たちを夢見心地にさせる。
サーネスは報せを待っていた。待つと言っても吉報であることはわかりきっているので、特に気がそぞろというわけではない。ようやく胸のつかえが取れる清々しさに、一人で祝い酒を飲んでいるのだ。
隠し部屋の影が、寄り集まり始めた。
(来たか)
サーネスの唇が、にやりと弧を描く。女たちには決して見せない、まことに品の無い笑みだった。
目前に集合した巨大な影から、怪物が生じた。
サーネスは立ち上がり、両腕を広げ、歓迎の意を示した。
「お疲れ、影の目!あの女は殺せたかい?」
「ああ、殺した」
その大きく避けた口から声が発せられる。獣の唸り声を思わせる、低く不気味な声だ。
「良かった!もちろん成功を信じていたよ」
「証拠を見せよう」
影の目は銀色の手をサーネスに伸ばした。サーネスの顔が引きつる。
「い、いや『証拠見せ』は私はいらない、君がやり遂げたことを疑ってなどいない」
「駄目だ、これが私の段取りだ。省略はしない」
「うっ……」
観念して目をつぶったサーネスの頭に、影の目の銀色の手が乗せられる。
途端、サーネスの脳内に、リーサの最期の映像が鮮やかに展開された。
死ぬ直前の言葉。それは影の目への、いやサーネスへの命乞いだった。影の目がそれを無視して胸を貫く。そして最後、血で染まる壁やベッド。
銀色の手が頭から離れた。
凄惨な映像から解放されたサーネスは、はあはあと息をつき胸を抑えた。額から大量の冷や汗が吹き出していた。
だが、やがて落ち着きを取り戻す。汗をかきながらも、サーネスはにやりと笑った。
「よくやってくれた」
「報酬を寄越せ」
差し出された銀色の手のひらに、サーネスは金貨がずっしり入った巾着袋を乗せた。影の目は巾着袋を握りながら言った。
「あんな街娘、私に依頼するようなことではあるまい。そこらの暴漢でも雇えばいいものを。金の無駄遣いだな」
「娘ではないさ、もう三十目前の年増女だ。念には念をいれたかったんだ。とても大事な時期なのでね。せっかく王女様を落としたのに、あんな小汚い女のせいで縁談が取りやめになったらどうする?」
サーネスは、さる王国の第三王女との婚約が決まっていた。それはサーネスのような弱小貴族にとって破格の縁談であった。全てサーネスの、口説きの手腕と根回しによるものである。
影の目は興味なさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
「さすがだった、影の目」
影の目の大きな体が、色を失っていく。その姿が影に溶ける。
別れの挨拶もなく、影の目は去っていった。
サーネスは大きく安堵の息をついた。
ソファにその身を沈めた。しばらく放心したように天井を見つめていたが、ふっと笑うと身を起こし、グラスに新たなワインを注いだ。
祝杯だ、と思う。
今宵の酒は実にうまかった。
◇ ◇ ◇
ともだちにシェアしよう!