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第10話 回想/魔力を与える
その日以来、サギトは二度と夢精をすることはなくなった。
その代わりというか、サギトはグレアムに誘われて、毎日のように一緒に「抜く」をするようになっていた。おかげで一人で達した記憶がほとんどない。読書場所だったはずの森の奥は、いつの間にか「抜き場所」みたいなことになっていた。まあ読書もしたけれど。
まさか毎日のように誘われるとは思っていなかった。多分グレアムは、サギトがまた夢精するんじゃないかと心配しているのだろう、とサギトは思った。サギト一人じゃうまくできないだろうと、世話を焼いてくれているのだろう。
サギトはそんな日々に、幸せを感じていた。
グレアムの手で快楽を与えられ、絶頂を迎える。身も心もとろけながら、何度もキスされた。
唇を重ねるたび、このまま永遠に時が止まればいいのにと思った。
グレアムにとっては頼りないサギトへの世話焼きでも、そういう行為を重ねることで、サギトはグレアムに対して複雑な感情が芽生えるようになっていた。
それがどういう感情なのか言葉で言い表すのは難しいが、一番的確なのは、独占欲かもしれない。
それはサギトが、多分ずっと前から心の底に持っていた願望で、同時に一番恐れていた感情でもあった。
だってグレアムを独占することなんて出来るわけないのだから。
グレアムは相変わらず人気者で、たくさんの友達に囲まれていて、そして時々、サギトに世話を焼く。それは変えられない形だ。
また、別れの時期も近づいていた。
孤児院には十八歳までしかいられない。十九歳になる前に追い出される。
だから孤児院を出た後の生き方を、孤児たちは考えなければいけない。
グレアムの夢は子供の頃からずっと、「騎士になること」だった。
ムジャヒールとの戦に明け暮れるこの国には二種類の騎士がいた。一つは貴族身分の正規騎士。そしてもう一つは、主に士官学校出身者から成る選抜騎士だ。
選抜騎士は全国民の中から選り抜かれる実力派集団だ。国から高給がもらえ、一代限りとはいえ貴族に準じる地位が与えられる。
そして何より、国民から尊敬される。多くの少年達の憧れの職だった。
グレアムは士官学校試験を目指して、座学と実技の勉強をしていた。孤児同士の棒の叩き合い遊びは、木の剣を使った真面目な剣術の訓練となっていた。
サギトはと言えば、漠然と、いつか薬の調合を生業にしようか、とは思っていた。
高度な薬品は魔道を用いなければ作ることができず、薬の調合は魔道士が行うものとされている。不本意ながら身につけてしまった魔力を活かすことができるのだ。
そして薬屋ならば、おぞましい魔人の力を誰かを救うために役立てることができる。
疎ましい魔力でも人の命を救えれば、サギトの何かが満たされるような気がした。
でも、それも絵空事のようにも思えた。
とりあえず孤児院経由でなんらかの職を斡旋してはもらえるらしかった。賃金のうんと低い底辺労働ではあろうが。
◇ ◇ ◇
ある日、いつもの場所で、サギトはなんとなく将来の事を話題に出して見た。
サギトは本を開き、グレアムはサギトの膝を枕に寝そべっていた。
そういうグレアムを見るのは久しぶりだった。試験のための鍛錬に忙しいグレアムは、最近はこうやってサギトのそばでいつまでもダラダラ過ごすことは、少なくなっていた。
サギトはあまり頭に入ってこない本を閉じた。
「グレアムは士官学校に行くんだよな」
「試験に合格したら、だけどな。合格率はかなり低いらしい。でも、合格してみせるさ!俺は絶対に騎士になりたいから。どんな事をしてでも騎士になるつもりだ。邪教帝国からこの国を守りたいんだ」
「そうか」
「もし行けたら、待遇はいいぞ。士官学校には寮があって国から生活費も出してもらえる。外出も外泊も禁止だから、不自由な生活にはなるんだろうが」
「学校から外に出られない、のか?」
「ああ、卒業までの三年間はな」
「三年間、か。卒業したら仕官するんだろう?そうしたら」
「選抜騎士はすぐ前線に駆り出されるらしいから、国境の砦に行かされるのかな……って、そうか、考えたらずっと自由のない生活だな!」
いまさら気づいたようにガバと身を起こすグレアム。サギトは複雑な心情を押し隠し、ふっと笑った。
「大変だな。でも、それがお前の夢だからな」
グレアムは照れたように笑う。
「うん。サギトはどうするつもりなんだ?」
「俺は、まだ、何も。まあいつか、薬屋にでもなりたいかな」
「薬屋?」
「人の命を救う仕事をしたいんだ……魔人の力で。魔人の力だからこそ」
「なるほど、サギトらしいな……」
グレアムはそう言ったあと、なぜか押し黙った。
しばらくして、躊躇いがちに、全く予想外なことを切り出した。
「なあ、お前も士官学校の試験を受けたらどうだ?」
「は!?俺は騎士なんて」
「士官学校に入るのは騎士見習いだけじゃない。お前は魔道が使えるじゃないか。魔道士見習いとして士官学校に入って卒業して、そこから宮廷魔道士になればいい。お前にぴったりじゃないか」
「えっ……」
宮廷魔道士という言葉はもちろん知っている。王城の魔道研究所で様々な魔術の開発をしたり、魔道兵として騎士団に加わったりする職のことだ。
魔力を持つ者たちの憧れの仕事。
宮廷魔道士。
突然言われたそのきらきらした響きは、サギトの心にぐっと突き刺さった。
そんなものになれたら、そりゃあ……。
「む、無理だよ。そりゃあ、城勤めは憧れるし、宮廷魔道士になんてなれたら最高だけど、だって俺は紫眼だろ。で……魔人、だろ。宮廷魔道士になるために魔力をアピールしたら、きっと魔人だってばれてしまう」
グレアムは納得できないという顔つきをした。
「今、この国はムジャヒールに滅ぼされるかもしれないっていう、切羽つまった状況なんだぞ?こんな状況で魔人とか魔王とか、迷信じみたこと言ってる場合じゃないだろ。お前には強力な力がある。その力を使えばムジャヒールだって怖くない。お前ならこの国の救世主になれる!」
救世主。
グレアムの発想のスケールの大きさに、サギトは舌を巻く。よくて薬屋、などと思ってたサギトに救世主を薦めてくるとは。グレアムらしさにサギトは笑みをこぼした。
サギトは、首を横に振った。
「ありがとう、そんなこと言ってくれるのはお前だけだよ。でも、やっぱり俺は自分が魔人とばれるのがすごく怖い。だから士官学校は受験しないよ」
グレアムはとても残念そうな顔をした。
その時なんとなく、こいつは士官学校に無事に合格するんだろうな、と直感した。
サギトの届かない、遠いところに行ってしまうんだろう、と。
ふいに胸のうちから、強い感情がこみ上げてきた。
独占欲。執着心。
グレアムをサギトのものにしたいという欲求。
(離れたくない。離したくない)
(こいつが、欲しい)
得体の知れない激情が突風のように吹き荒れる。
突然、口に強烈な痛みが走った。
「うっ……」
サギトは顔をしかめ、片手で口を抑えた。口の中ががんがん響く。
「サギト!?どうした!?」
「わ、わからな」
言いかけて、口の中に違和感を覚えた。
歯が、伸びていく?
口の中で、上の二本の犬歯が下に伸びていく感覚がした。次いで、伸びた犬歯が下唇にあたる感覚。
そして痛みが治まった。
なんだ、これは。
サギトは震えながら、口から手を離した。
もしかして、これは。
グレアムは目を見張り、サギトの口元を凝視した。
「サギト、牙が……!」
心臓が早鐘を打った。生えてきたばかりの牙がうずいていた。
(噛みたい。噛みたい。噛んで、注ぎたい)
(俺を、注ぎたい)
異様な欲望がわきあがってくる。
グレアムへの欲望。
サギトはグレアムの左腕をぐっと掴んだ。その手を翻して手首を見つめる。そこに走る青紫の筋を見つめる。
噛みたい。注ぎたい。
(俺のものに)
狼狽していたグレアムは、その時はっと何かに気づいたように息を飲んだ。
「俺に魔力をくれるのか?出来るのか、サギト!」
サギトは確かめるようにグレアムの目を見上げた。
きっとおかしな目つきをしていたはずだが、グレアムは力強くうなずいた。
「やってくれ」
「……」
サギトはその手首に噛み付いた。長い牙を、透ける血管に突き刺した。
「つっ」
グレアムが小さく痛みに声を漏らす。
サギトの口の中でグレアムの血があふれた。サギトは高揚しながらその血を啜った。
そしてさらに深く、牙を突き立てる。サギトは魔力を注ぎ込んで行った。
グレアムが苦しそうに荒い息を吐く。呼吸がやがて、苦悶の声へと変化する。
「うっ、はっ、はっ、はあっ、つあっ、ぐっ、ああああああああっ」
苦しげに身をのけぞらせ喉をさらす。グレアムの体内で明らかに何かが起きていた。
サギトはこの時、勃起していた。
グレアムの穢れ無き綺麗な血を、サギトの呪われた血で染めて汚す。
その背徳的な心地よさ。
己の中にこんな薄汚い欲望が隠れていたのか、と自分で自分にあきれる程、サギトはグレアムの血を汚すことに異様な快感を感じていた。
ぎりぎりと強く強く歯を立てた。射精にも似た快感がずっと持続する。
気づけばサギトは、与えられる限界まで魔力をグレアムに分け与えていた。
グレアムの手首から口を離した。
「はっ……。はっ……。はっ……」
グレアムは苦しげに息をつきながら、右手で自分の胸のあたりをかきむしった。
見ればグレアムの全身から、黒い影が立ちこめていた。グレアムが暗黒のオーラをまとっている。
サギトと同じオーラを。
口の中で、サギトの牙が縮んでいった。普通の犬歯に戻る。
サギトは笑みを浮かべた。グレアムを汚し尽くせたことに心から満足し。
口の端から血をしたたらせるサギトは、まさに吸血鬼のような姿だったろう。
やがてグレアムの身にまとわりつく黒い影が引いていった。グレアムの呼吸も落ち着いてきた。
グレアムの手首はまだ流血していた。サギトはその腕を取り、再び口をつけてそれを舐め啜 る。
食事の終了を惜しむ吸血鬼のように。
そんなサギトを、グレアムは荒く息を上げながら見つめた。
傷がふさがり、血が止まった。サギトは全てのグレアムの血を綺麗に舐め尽した。
グレアムの左の手首には、虫刺されのように赤茶くふくれた噛み痕が二つ、残った。
サギトは口についた血をぬぐって、グレアムの顔を見る。
「大丈夫か?」
グレアムは手で額を抑えながらぎこちなくうなずいた。
「あ、ああ」
「辛かったか」
「苦しかったけど、でも、」
言いながらグレアムはサギトの顔を両手で挟んだ。サギトの顔が大きな手に包まれる。
「お前と一つになれた気分だ。すげえ嬉しい」
心臓がどくんと鳴った。
なんだその台詞は。
己が恥ずかしくなって頬を染めた。サギトはただ、邪 まな欲望のままにグレアムを汚しただけなのに。
「よかっ……たのか。魔人の力なんて、後悔しないか……」
「しねえよ!サギトの注いでくれたサギトの一部だろ。本当にありがとう、大事にする」
グレアムはとても幸福そうに、くしゃくしゃの笑みを浮かべた。
「……」
サギトは自身の後ろ暗さとグレアムの明朗さの落差に何も言うことができず、うつむいた。
昏い欲望の激情が、急速に冷やされる。
(何を考えていたんだ俺は)
視線をさまよわせながら言った。
「これでお前も……魔術を使えるようになったな」
「本当に俺にもできるのかな?いろいろ教えてくれ」
「うん、もちろんだ」
サギトはうなずいた。
◇ ◇ ◇
グレアムには魔力を使いこなす才があった。彼はすぐに基本魔術の全てが出来るようになった。いつもサギトの魔術コントロール訓練に付き合って目で学んでいたのも良かったのだろう。
サギトの見立てでは、グレアムは、サギトの六割程度の力を得たようだった。自分の力の六割、これが魔人が人間に与えられる魔力の最大値なのだろう。
風の刃で十本くらいの薪を一気に割る様子を眺め、サギトは呆れたように笑う。
夕方の、孤児院裏の薪置き場。薪割りは年長組の孤児の仕事だった。
「勉強も剣術もできて、さらに魔術もか。嫌味なくらい完璧なやつだな、お前は」
「いや、サギトのおかげだ」
「騎士になったら、お前こそ救世主になれそうだな」
「そ、そうか?」
「ああ。俺の魔力、国の為に役立てたらいい。英雄になれ」
サギトは半分冗談、でも本当にそうなりそうな予感がしながら言った。自分なんかが無駄に隠し持っているより、グレアムが持っていたほうがきっと役立つ力だと思った。
グレアムは複雑な表情を浮かべた。
「俺はやっぱり、サギトと一緒に士官学校に行って、サギトと一緒に英雄になりたい」
サギトは苦笑いを浮かべる。
「だからそれは無理だ」
グレアムはサギトの目をまっすぐ見て言った。
「お前、宮廷魔道士になりたくないのか?」
サギトの心は大きく揺らいだ。それはとても、素敵な響きのする単語だった。
城に勤めて、国の為に働き、皆に感謝されて尊敬されて。
「な、なりたいけど」
「だったら!」
サギトはため息をついた。あまり角 を立てたくないサギトは、
「頼む」
とだけ言った。
グレアムは、はっとした顔をした。そして心苦しそうに口をつぐんだ。
「ごめん」
謝られたサギトは、力なく笑みを浮かべた。
「いや、いい」
こういう時やはり、紫眼である自分とそうでないグレアムとの溝を感じてしまった。グレアムはあまりにも認識が甘かった。
魔人云々を抜きにしても、紫眼、つまり忌人が宮廷魔道士になどなれるわけないのだ。
忌人にはいくつかの種類がある。紫眼の他にも、耳の尖った「尖り耳」、肌が緑色の「緑肌」、頭にツノが生えている「有角」、額に目がある「三つ目」。それらが騎士や宮廷魔道士になったことはない。
忌人の騎士、忌人の宮廷魔道士。そんなものは存在しない。一人もいない。
「実力主義で身分に関わらず国民から広く才能を募る」と謳われる職でも、忌人は例外だった。それがこの世界の現実だ。
サギトは、薪を拾い始めた。
グレアムが風魔法で見事に分断し散乱した薪。グレアムも慌てたように拾い出す。拾いながらまた、
「ごめんな」
「いいって」
何度も謝られると、かえって傷つくというものだ。グレアムは確かめるように言った。
「俺たちの関係さ、孤児院を出ても変わらないよな。俺達はこれからもずっと、その……」
「うん、きっと変わらないさ」
そんなわけはなかったが、サギトは否定しなかった。
薪割りという面倒でつまらない作業すら、とても大事な何かのように思えてきた。
感傷がこみ上げた。別れの足音が、もうすぐそこに近づいていた。
◇ ◇ ◇
この少々気まずい会話の三ヵ月後、グレアムは士官学校入学試験を受け合格した。
そしてグレアムにとって栄光への第一歩だったその日は、サギトにとっては、血塗られた日々への第一歩となる。
◇ ◇ ◇
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