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第14話 再会
リーサ・ルイスを殺してから一ヶ月、サギトはカフェ「白鳩亭」から足が遠のいていた。あの胸糞悪い仕事を思い出したくはなかった。
だが夕闇の時間、今日は久しぶりに「白鳩亭」に来ていた。何故、足が向いたのかは自分でもよく分からなかった。なんとなく、としか言いようがない。二度とここには来ないつもりだったのに。
サギトはまたオープンスペースでスープを飲んでいた。六百マルツのオニオンスープ。
突然耳に飛び込んできた言葉に、サギトはスプーンを取り落としそうになった。
「見ろ、グレアム様だ!国境での戦から戻られたんだ!」
「信じられない、街でグレアム様のお姿を見られるなんて奇跡だわ」
心臓が縮む思いがした。
滑稽なことに、無様なことに、サギトが感じたのは「恐怖」だった。身のすくむような。
一体、何を恐れているのか。何が怖いのか。自分でも分からなかった。
サギトはつばを飲み込みながら、人々がざわめき注目する一角に視線を移した。
オープンスペースのはじのほう、確かにいた。
騎士服を着て、同じ騎士服を着た男数名と共に。グレアムが。
サギトは八年ぶりの友を、呆然と眺めた。
グレアムだとすぐに分かった。分かったが、それはもう別人だった。
見たこともないような、立派な武人がそこにいた。
いや、武人という言葉では足りない。「英雄」の風格を、彼は確かに兼ね備えていた。
白く輝く騎士服に包まれる、男として完成された見事な肉体。
陽光のような金髪は子供の頃より長く伸び、生粋の貴族のような高貴さすら身にまとっている。
人懐こいのに理知的な、青く澄んだ目は、歴戦を経た男特有の鋭利さを宿し、才気迸る。
実に、いい男だった。
完璧に整った顔立ちは、精悍であると同時にどこか優美さもあり。
このような男に、女どもは一目で恋に落ちるのだろう。いや女だけではない、男も惚れさせる何かを持っていた。かつて孤児院で常に、子供達の中心にいたように。
グレアム達の席に、店長が自らオーダーを取りに来て、うやうやしく頭を下げた。
「グレアム様、お越しいただき恐悦至極に存じます」
「おお、店長か?貴族もお忍びで訪れるうまい店ってな評判を聞いてな。いい店だな、本当は頻繁に来たいものだが」
「いえいえ、絶え間なくムジャヒールと戦っておられてお忙しいことは国民全員が知っております故。このたびの戦も勝利を収めたとか。いつもこの国を守っていただきありがとうございます」
英雄は気さくそうな笑みを浮かべる。
「いや、俺一人の力じゃない。ここにいるこいつらも含めて、騎士団の皆で勝ち取った勝利だ。それに国民の税のおかげで、俺たちは食えているんだから」
殊勝な言葉に店長は感極まった様子だ。
「ああ、お強いだけでなくご人徳まで素晴らしい、グレアム様の守る国に生まれ、私は一国民として心より誇りに思います」
グレアムは快活に笑った。
「ははは、なんだか聖者にでもなった気分だ。大袈裟だな店長は。見ろ、団員たちが笑いを噛み殺してるじゃないか。ほら副長なんてこんな冷たい目で俺のこと見てる」
同席の騎士達が笑い声をたてた。グレアムの隣に腰掛けている男は、こほんと咳払いをした。ゆるやかにウェーブする金髪を背中まで伸ばした、非常に美しい男だった。
「見てませんよ。私が市井の皆様に嫌われてしまうから、そういうこと言わないで下さい。あなた人気者なんですから。ところであの、そろそろオーダーよろしいでしょうか、店長?」
「はい、ノエル様」
サギトは吐き気すら感じていた。
紛れも無い、ただの妬みの感情から。
ずいぶんご立派じゃないか、と思った。非の打ち所のない英雄様じゃないか、と。民に尊敬され良い仲間に囲まれ、ああまったくもって、幸福そうに生きてるじゃないか。
俺の魔力で。
サギトは自らがすがっていた「影の目」という虚構が音を立てて崩れていくのを感じた。忌み嫌われる殺し屋風情が、この本物の英雄に勝てるわけが無かった。
どう粋がったところで、自分は底辺でこいつが頂点だ。
(でもそれは俺の魔力だろ)
サギトはもう、耐えられなかった。
自分自身の醜い感情に。
ウェイトレスを呼びもせず、机に六百マルツを置いた。すくと立ち、席を離れる。
その瞬間、グレアムがこちらを見たような気がした。気のせいだと思うことにした。
グレアムが息を飲んだような気もした。気のせいだと思うことにした。
サギトは逃げ出すように店を出た。
◇ ◇ ◇
サギトは足早に通りを抜け、自分の家に、薬屋に戻って来た。
角を曲がって自分の店舗が見えたところで、サギトは舌打ちをした。店の表の壁にべたべたと張り紙がされていたから。
近づき読んでみれば、張り紙の内容はいつもどおりだ。「紫眼はこの街から出て行け」等と汚い字で書かれていた。
またか。
今日は張り紙だけだからまだいいほうで、先日は大量の堆肥 が置かれていて、なかなか匂いがとれず大変だった。
ここが紫眼の店であるために、嫌がらせをよくされる。付け火されたことも何度もある。防火魔法は欠かせない。窓硝子は普通のものだと投石ですぐ割られるので、特殊加工の強化硝子を取り寄せた。
慣れた手つきで張り紙を片付けたサギトは、一階の薄暗い店舗をなんとなく、眺め渡した。
品揃えは良いのだ。
どれもサギトが自ら調合したものだ。回復薬も毒薬も媚薬も、この規模の店にはありえないほど、様々な薬品を取り揃えている。巷で人気の薬から、滅多に手に入らない希少薬まで。あらゆる難病に対応する特効薬も取り揃えている。この品揃えは城下一だと自負している。
本来なら、多くの命を救えるはずの店。
だが、どの商品も埃をかぶっている。誰を救うこともなく。
客は三日に一人来ればいい方だった。それも、紫眼の店だと知らずにうっかり入ってしまったような客。大抵が、サギトの顔を見て、逃げるように去っていく。
ため息をつき、髪をかき上げた時。
カラン、というドアベルの音を鳴らしながら、店のドアが開けられた。まさか、客?と思って振り向いた。
戸口に立つその男に、我が目を疑う。
「サギトか?」
グレアムだった。
サギトは物も言えずグレアムを見つめた。八年ぶりの友を。
立派な騎士服を着た、人を魅了するオーラを持つ男。
そしてサギトを裏切った男。サギトを売った男。サギトの八年の鬱の元凶。
恨みの感情がふつふつと沸いてきた。冷静になれと自分に言い聞かせる。落ち着け、落ち着け。
グレアムが戸口から歩を進め、サギトに近づいて来た。
サギトの心臓が高鳴る。一体その口から何が語られるのだろう。
サギトはその時、期待した。
期待してしまった。
なぜサギトのことを告げ口したのか、その理由や経緯が、本人の口から語られるのではないかと。
言い訳でもいい。聞くに耐えない卑怯な言い訳で構わない。
とにかく何か、この八年のサギトの心の澱を拭い去ってくれるような言葉がその口から紡がれるのではないかと。
サギトは期待をしてしまった。
「サギトなんだよな?」
グレアムはもう一度問いかけた。サギトはぎこちなくうなずいた。
「そうか。驚いた、まさか街で薬屋を。薬屋か、そういえばそんな話をしていたなお前は。いい店じゃないか。お前が調合したのか?」
言って、店を眺めやる。
サギトは眉をひそめた。強烈な違和感を覚えた。
違う、と思った。何を世間話なんてしてるんだ、と。
もっと大事なことがあるはずじゃないのか。
(あの赤毛の男に俺が魔人であることを告げ口しただろう?)
(そして危険な俺を殺してくれと頼んだんだろう?)
(お前に裏切られてこの八年、俺がどんな目に遭い、どんな暮らしをし、どんな気持ちだったと思ってる?)
グレアムは顔を上げてサギトを見た。
「結婚はしているのか」
なんてどうでもいい、くだらない質問。
期待は失望に変った。限りなく絶望に近い失望だった。サギトは打ちのめされたように、掠れた声で、グレアムのくだらない質問に返事をした。
「してるわけないだろう」
そうか、と理解した。
こいつは知らないのか。サギトが全てを知っていることを、こいつは知らないのか。
サギトが何も知らないと思って、隠し通そうとしているのか。
全てをなかったことに、しようとしている。
(卑怯者!)
そして自分は弱虫だ。
あの事を自ら聞けない。あれ程心の中で恨みを募らせていたのに、本人を目の前にしたら何も言えないことに気づいた。怖いのだ。問いただす勇気がない。
「恋人は?」
またくだらない質問。
「いると思うか?」
「そうか。でも娼館くらいは……行ってるんだよな」
イラついた。何が聞きたい、こいつは。
「行かない。娼婦たちに化け物のように怯えられるんだ、行くわけあるか」
それでも娼館通いをしている同種はいるらしいが、サギトにはとても耐えられそうになかった。金を払ってまでそんな不快な思いをするくらいなら、自分で処理すればいい話だ。
それに、娼館はどうしても自分の出自を思い出させる。紫眼の客に孕まされた不幸な娼婦。無理だ、娼館には絶対に行けない。
「じゃあまさか、童貞なのか?」
「っ……」
答えに詰まった。それが明白なイエスを伝えていた。
なんなんだこいつは、なんでそんなことを根掘り葉掘り聞いてくるんだ。
眉間にしわを寄せるサギトの前で、グレアムが口の端を上げた。
その笑いに、サギトの顔がつと強張る。
なんだ、その笑みは。なぜ笑う?何を笑う?
その笑みの意味を考え、喉がカラカラになる。
……嘲笑?
ずきり、と心が痛んだ。
ああ、とサギトは納得した。こいつは俺を侮辱したいんだ、と。くだらない質問は全部、俺をバカにしていたぶるための質問か。
サギトはショックを受けた。グレアムを恨み、妬みながらも、それでも記憶の中のグレアムは良き友だったから。
サギトを嘲笑したことなど一度もなかったのに。
グレアムはサギトにずいと近づいた。
「もしかして、キスもしてない?」
サギトの動悸が激しくなる。グレアムは追い詰めるように侮蔑を続けようとしている。
「っ、それがどうし……」
いきなり両手で顔を挟まれ、口で口を塞がれた。
突然のことにサギトの頭は真っ白になる。
グレアムの肉感的な唇がサギトの薄い唇に強く押し付けられ、目の前には、グレアムの瞑った目。その長い睫毛。
そしてグレアムの匂い。あの頃と変わらぬ匂いが鼻腔をくすぐった。
唇が離れ、驚愕に目を見開くサギトを、グレアムが見つめる。笑みをたたえて。
「お前、俺としかキスしたことないのか」
サギトの胸の内が屈辱にかっと熱を帯びた。
なるほど。そういうことか。
二十六にもなって女を知らない無様な友を、そうやってからかうわけか。
「聞いてもいいか?サギトはまだ……」
そう言ってグレアムは小首を傾げる。
硬直するサギトの耳元に唇を寄せ、囁いた。
「まだ、俺のこと好き?」
「!」
サギトはグレアムの胸にどんと両腕をついて突き放した。
顔を真っ赤にして、手で口を押さえた。悔しさと惨めさに身を震わせた。
(気づいてた。気づかれていた)
あの頃のサギトの想いに、グレアムは気づいていた。
気づいていて裏切ったのか。魔力を得るため利用したのか。
「ふざけるなっ!」
サギトは必死に手の甲で口をぬぐった。こみ上げる涙をぐっとこらえた。
グレアムはそんなサギトの様子に、驚いたような顔を見せた。
「キス、嫌だったか?ガキの頃は何度もしたじゃないか」
「覚えてない!お前のことなど全部忘れた!」
この男はただ、このためだけに。サギトを玩具にして踏みにじるためだけにやって来たのだ。なぜ?
おそらくは暇つぶしに、戯れに。
そうだろう、騎士として王道を歩む上流の男と、裏街道を這いずり回って殺人者として糊口をしのぐ底辺の男の間に、対等な友人関係など成り立つわけがない。
「そんな、俺はいっときも忘れたことがない、この八年間」
くだらない戯言ばかり。エリート騎士様が街で見かけた知った顔に、気まぐれに声をかけただけだろうに。
「帰ってくれ!」
「いやまだ用を言ってない。お前に大事な話があるんだ。聞いてくれ、俺は実は、護国騎士団長になったんだ。自分の騎士団を持っている、だから」
今度は自慢が始まった。なんて悪趣味な男に成り下がったことだろう。
ああ知ってるとも、と忌々しく思った。
史上最年少の護国騎士団長様だろう、巷はその話題で持ちきりだ、王国の平和を担う若き英雄に世間は沸き立っている。
救国の英雄よ、気まぐれに旧友を嗜虐するのは、そんなに愉しいのか?
「聞きたくない!気分が悪い、帰れ!」
「話だけでも……」
「帰れと言ってる!今すぐ出て行け!」
グレアムはふうとため息をついた。
「じゃあ、また日を改めて来るから」
再びカランとドアベルを鳴らして、グレアムは出て行った。
サギトはふらつきながら後退り、背中をどんと壁に預けた。
そのままずるずると床にへたり込んだ。両腕で己が身を抱いた。全身が震えていた。
(誰だ、あいつは。あれがあのグレアムなのか)
外面だけが立派で、中身は冷血冷酷。
あれほどの罪を平然と「なかったこと」にでき、八年ぶりの友人を戯れに侮辱する。
(あれが本来のグレアムだったのか)
ぽたぽたと涙がしたたり落ちた。
なぜ泣いているんだろうとサギトは思う。
悔し涙?
違う、これは、悲しみだ。
たった一人の友を、今日完全に失ってしまった悲しみ。
あの頃のグレアムは、もうどこにもいない。
分かっていたはずなのに。最初から全てが、偽りだったと。
はっきりと現実を突きつけられ、喪失感で己がばらばらに壊れていく。
そうか、とサギトは気づく。
自分はグレアムのことをこんなに好きだったのか、と。
まだ、こんなに好きだった。
それでも綺麗な思い出だった。たとえ最後に裏切られようと。
記憶の中のグレアムは、サギトの真っ暗な人生のたった一筋の光だった。
(俺にはお前しかいなかった)
サギトは幻を愛したのだ。
久しぶりに嗅いだ友の匂い。太陽の匂い。
もう「彼」はどこにもいないのに、匂いだけは変わらなかった。
◇ ◇ ◇
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