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第15話 妖術使い
サギトは寝室のベッドに横たわり、虚ろな目で天井を見つめていた。
「全て……失った……」
ひとりごちて、鼻で笑う。
(失った?何を?お前は最初から何も持ってなどいないじゃないか)
癖のように自問して自嘲して、虚しくなる。
涙がこめかみを伝い、耳が濡れた。
その時、サギトの目の前の空間に、小さな影が寄り集まり始めた。そして影の中から紫色に発光する蝶が出現する。
サギトの使い魔だ。影の目への依頼を持ってくる役目。組織の事務所とサギトの間を往復する蝶。
依頼人は組織に影の目への依頼をし、サギトは組織から依頼人の情報を得る。なお組織はいまだに「サギト」のことは知らない。影の目がサギトだと知る者はどこにもいない。
また殺人依頼。つくづく、うっとおしいと思った。影の目を続けて金を貯め、なけなしのプライドを保ってきた。虚無を満たしてきた。
でも、もう、全部がどうでもいい。
ベッドから体を起こした。紫の蝶を捻り潰してしまおうと手を伸ばした。
が、手を止めて眉をひそめる。
自分の使い魔に違和感を感じた。
いつもとどこか違う。よく見ると、羽に文字のような文様がついていた。紫一色のはずの蝶の羽に、ミミズがのたうつような文字。
それがムジャヒール文字だ、と気づいた時。
紫の蝶が紙のようにくしゃくしゃに潰れた。と思ったら、またそれは開かれた。紙くずを開くように。開いたそれは、蝶ではなくなっていた。
サギトの目の前に大きな楕円形の紙が浮かんでいた。
肖像画だった。
独特な四角い帽子を被り、長いあごひげを生やした皺だらけの老人の肖像。
それはどう見ても、ムジャヒールの妖術使いの姿だった。
肖像画の老人が、瞬きをした。その口が動く。
「お初にお目にかかります、影の目様。いえ、サギト様と申すべきでしょうか」
ムジャヒール語訛りの、聖教圏共通語。
サギトは衝撃を受ける。使い魔に細工をされ、自宅への侵入を許してしまった。「サギト」が影の目である事まで知られた。
ムジャヒールの妖術の凄さは聞いていたが、これ程なのか。サギトは恐怖と不安を気取られないように、努めて冷静に問う。
「なんの真似だ?邪教国の妖術使いが俺になんの用だ」
「もちろん、依頼でございます。殺しの」
サギトは目をすがめた。こいつは何を言っているんだ?言葉通り受け取ればいいのか、あるいは、罠か。だがサギトを罠にはめて、ムジャヒールに何かの得があるとも思えない。
言葉通りに受け取ることにした。
「誰を殺してほしいんだ?」
「ランバルト王国の英雄。聖教圏の守り主。我が皇帝陛下の聖戦を阻む、悪魔のごときあの男」
サギトの目がわずかに見開かれた。気取られてはならない。動揺を気取られては、足下を見られる。
「グレアムか」
「いかにも」
サギトはふん、と嘲笑う。
「ムジャヒール自慢の妖術を使って殺せばいいじゃないか」
「既になんども試みてますが、全て失敗しております。あの者は魔力が強すぎる」
「ならば俺にも無理だ。ムジャヒールの妖術で暗殺できない相手では、俺にも殺せないだろう」
「影の目様ともあろうお方が随分とご謙遜なさる」
「ただの合理的判断だ」
実際、難しいと思われた。グレアムの魔力はサギトの六割ほどだが、その力に騎士としての経験値が加わる。決して馬鹿にできない要素だ。勝負は五分かもしれない。
少なくとも、金銭目的の殺しに見合う勝率でないことは確かだ。
「しかし旧友であるサギト様にならば、あの男も気を許すのでは?」
流石に驚きを隠せなかった。サギトは苦笑を浮かべる。
「さすが帝国、そこまで調べがついているか。なるほど、つまり。サギトとしてあいつを殺せと?ナイフでも使ってグサリと、か?それも却下だ。俺は決して足がつくような殺しはしない」
妖術使いは口元に緩やかな笑みを浮かべた。
「ご心配無用でございます。万一、サギト様の正体が王国中、いえ聖教圏中に知れ渡ることになろうとも、問題ございません」
「どういう意味だ?」
「皇帝陛下は、あの男を殺してくださった暁には、サギト様を我が帝国の宮廷魔道士として召抱えたいとご所望です。その際は当然、ジャヒン教に帰依はしていただきますが」
サギトは息を飲む。また、動揺を隠すことができなかった。
妖術使いは口元の笑みをさらに深めた。
「サギト様ほどのお方が、いつまでそのような辺境の小国で暗殺者稼業などなさっているのです?我が帝国の中枢こそがあなたにふさわしい舞台では?」
「な、なにを言って」
「僭越ながらサギト様をお迎えするのに、我が国ほど完璧な国家はないと自負しております。世界最高の文明、世界最強の軍隊、世界最大の領土、世界最多の人口。我が国は既に、人類史上最大最強の世界帝国でございます」
「自画自賛、か」
「事実は事実、誰にも否定はできますまい。そしてムジャヒール帝国はいずれ、聖教圏のごとき周辺の蛮族国家全てを平定し、世界の全てを支配下に置きましょう。そう、史上初の世界統一国家の誕生です。その世紀の瞬間、その中心に、サギト様にいていただきたいのでございます!」
「俺に、国を捨てろと言うのか?」
「はて、未練がありますか?」
笑顔でさらりと言ってのけられ、サギトは押し黙る。
言われてみれば何も無い。
サギトはこの国に拒絶された。
社会の暗部で、暗殺という糞さらい以下の最底辺職を引き受けることでようやく、ここにいることを許されている存在だ。
「世界は広うございます。あなたはこの北方の田舎諸国しかご存じない。遠見の術はお使いになりますか?一度、帝都をその目でご覧ください。帝都の宮殿に比べれば、この国の城など、まるで古びた倉庫のよう。帝都の町並みに比べれば、この国の城下町など、まるで寂れた寒村のよう」
妖術使いの語り口調は熱を帯びる。言われずともサギトはすでに、ムジャヒールの帝都に生霊を飛ばして見たことはあった。ちょっとした好奇心で。
確かにとてつもない都だった。この世の物とは思えない、あるいは同じ時代の物とは思えない、まるで未来の都市のようなところ。
世界最高技術と言われるムジャヒール建築による、ドーム屋根や尖塔の美しい巨大宮殿は言わずもがな。黄金と純白に輝く、天上の建物のごとき大宮殿だった。
そして街並み。完璧に区画整備された石畳の広い道、堅牢かつ洒落た建物が立ち並び、緑の植栽や鮮やかな花々や清涼な水路が景観を整える。美しく整備されたそんな街並みが、宮殿周りだけではない、どこまでもどこまでも広がるのだ。どこまで行っても、都なのだ。国一つが都市の中に収まるのではとすら思われた。
そして一番驚いたのは、その人種の多様性。物であふれる豊かな市場には、様々な肌の色、目の色、形態をした人間がいた。ランバルトで忌人とされる者達も。彼らはムジャヒール人に差別される様子もなく、皆が同じように生きているように見えた。
ムジャヒールの統治は残虐を極めるという話だ。規律厳しいジャヒン教の経典に縛られ不自由な生活を強いられているとも。
しかし実際に見てみれば、ムジャヒール帝国民たちの予想外に幸福そうな様子に戸惑ったものだ。
サギトの心を覗き見でもしているかのように、妖術使いは言葉を繋げた。
「唯一神ジャヒン様の代理たる皇帝陛下のご慈悲の下、様々な人種が行き交い、闊達に活動する帝国は、まさに人類統一の要となるべく運命づけられた、ユートピアなのでございます。その帝国の中枢こそが貴殿の活躍の舞台にふさわしい!」
サギトはごくりと喉を鳴らした。
既に相手の術中にはまっている自覚はあった。そして墓穴を掘るように、つい、その質問をしてしまう。
「帝国では、紫眼は差別されていないのか?」
妖術使いは笑い出す。とても朗らかに。
「されているわけがございません。一体なんですか、紫眼とは?そんな言葉すら我が国の辞書にはございません。肉体など器に過ぎませぬ。重要なのは魂の形。ジャヒン教徒であるか否か、人の正邪を決めるのはそれのみです」
「……」
その洗脳めいた物言いは、しかし確かにサギトの心を動かした。
ムジャヒールに行けば、サギトは紫眼という肉体の呪縛から解き放たれるのか。
あの多様な人種に入り混じり、紫眼ではなく一人の人として扱ってもらえるのか。それだけで、サギトにとってはユートピアのように思われた。もともと聖教への信心などないサギトには改宗も簡単なこと。
さらに宮廷魔道士だと?帝国の?
俺が?
グレアムを殺す。考えたこともなかったが、サギトの暗い精神の片隅が、そんな方法があったのか、などと思っていた。
この八年、片時もグレアムのことを忘れたことはなかった。
憎んだ。恨んだ。妬んだ。
でも思い出はあまりにまぶしく、優しく、愛おしく。
身を焦がすほどに、恋しく。
愛しさと憎しみ。二つに引き裂かれる葛藤が、いつもサギトを追い詰めてきた。
(そうか、殺せばいいのか)
(殺してしまえばよかったんだ)
「……本当、なのか?本当に俺を、帝国の宮廷魔道士にするのか?」
「勿論でございます。貴方にはそれだけの価値がある」
サギトは目を瞑 る。
「いいだろう。その仕事、承ろう」
肖像画の中の妖術使いは、恭 しく頭を下げた。
「ありがとうございます。皇帝陛下もさぞお喜びになられるでしょう。吉報を確信しております」
そして肖像画はくしゃりと自ら潰れ、小さく丸まり消失した。跡形も残さず、妖術使いは消えた。
承諾してしまった。
後悔はなかった。後悔どころか、サギトはこみ上げる暗い興奮に打ち震えていた。
これでやっと解放される、と。
グレアムを殺す。
それはいままでのサギト自身を殺すことに他ならない気がした。
サギトはグレアムを殺すことで自身を殺し、新たな自分になる。
そして別人となって本当の人生を始める。
希望だ、と思った。
夜明けだ。
やっと俺の、長い長い夜が明けるんだ。
◇ ◇ ◇
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