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「お疲れさま。笠原、まだ残ってたんだ」  一日も終わりかけだというのに、晴れやかな朝を思わせる声が背後から聞こえて、口の中で「お疲れ様です」と言いながら振り返る。案の定、吉見(よしみ)(けい)だった。  今日は炎天下で一日外回りで、どこか服装が乱れていてもおかしくないはずなのに、ワックスでオールバックにされた髪は後れ毛一本なく、ワイシャツの袖は二回折り上げた程度で、ネクタイもきっちり上まで閉められている。出社した時と同じ爽やかさをまとい、透に笑顔を向けていた。  吉見は透と同い年だが、高校を卒業してすぐに入社したため、大卒の透よりも四年社歴が長かった。  同い年の上司。最初は戸惑ったが、入社して五ヶ月経った今はもう慣れた。 「今日、急ぎの仕事あったっけ?」 「急ぎではないのですが、来週のために終わらせておこうかと思いまして」  はは。乾いた笑い声を出しながら、頭をかいてみせる。さすがに、「自宅のエアコンが壊れたから、ここで涼んでいるんです」とは言えない。 「吉見さんはどうしたんですか? 今日直帰では?」  社員の予定が書いてあるホワイトボードを指差す。「吉見」の枠には「直帰」のマグネットが貼ってある。 「ああ、そのつもりだったんだけど、忘れ物しちゃってね」  吉見が照れ臭そうに笑みを浮かべ、デスクの上からスマートフォンを持ち上げた。 「社用携帯だけ持って出ちゃったみたい。明日は土曜日でしょう? プライベートのやつ回収しておかないとと思って。これ取りに来ただけだし、もう帰るよ」 「そうですか。お疲れ様です」  透は、吉見に背を向け、再びパソコンの画面とにらめっこしはじめた。「帰る」と言った割には、一向に人の気配が消えない。不思議に思い、首だけ動かすと、先ほどと変わらない場所に吉見が立っていた。なぜか俯き加減で、口を開いたり閉じたりしている。なにかを言おうと思いながら、ためらっているようにも見える。  目が合った。ばつが悪そうに微笑まれた。 「それ、急ぎじゃないんだよね? ちょうど良かった。ラーメン、付き合ってくれない?」  なにが「ちょうどいい」のか、まったく分からない。しかし、透も「ちょうど」お腹が減っていた。 「行きます」  二つ返事で了承し、パソコンをシャットダウンした。  元カレのことを考える余地がないほど脳の容量をいっぱいにできれば、仕事じゃなくても良かったからだ。 「ありがとう。嬉しいよ」  ぱっと笑った吉見は、空のてっぺんにある太陽のように眩しくて、透は思わず顔を背けた。

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