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ショートケーキを召し上がれ 6
「おじゃまします」
玄関扉を開けると、きらきらと目を輝かせた悠里が飛び込んできた。
「すごく美味しそうな匂いがする!」
「いらっしゃい、悠里。今日は何時までいられますか?」
実家暮らしの悠里にいつもの質問をすると、
「今日泊まってもいい?」
いつもとは違う答えが返ってきた。
「え?」
まばたきをして悠里を見返す。悠里は俯き加減になり、自分の首筋に触れた。
「健人さんちに泊まりたい。母さんには、『友だちのアパートで誕生日パーティー開いてもらって、そのままみんなで雑魚寝する』って言ってきたから。一応外泊の許可はもらった。心配いらないよ」
悠里はいつものリュックを背負っていた。この中に下着や着替えが入っているのだろうか。悠里は、お泊まりグッズを傍 に置きながら授業を受けていたということだろうか。何食わぬ顔をしてリュックを背負い、友人と喋っていたのだろうか。
――興奮する。
――じゃなかった。
良からぬ想像をしてしまった自分を恥じる。ごまかすようにブリッジに中指を添え、眼鏡を押し上げた。
「田丸さんに嘘をついたんですか。悪い子ですね」
いたって真面目な顔を取り繕い、それらしいことを言ってみる。
「だって、健人さんと二人きりで、しかもお泊まりなんて、恥ずかしすぎて言えないよ……」
悠里が完全に僕から目をそらし、耳まで真っ赤に染めた。
ぎゅっと心臓を握りつぶされたみたいな衝撃を受け、顔に熱が集まってきた。
五月に初めて二人で旅行した時は、僕の名前をなんの抵抗もなく母親に告げた悠里が、恥ずかしがって嘘をつくなんて。かなり僕のことを意識してくれている証拠だ。
すごく嬉しかった。手のひらで口元を覆った。とろけてしまっているだろう顔を、悠里に見られたくなかった。
「じゃあ、明日まで一緒ということですね」
「う、うん……」
悠里は僕の方を向こうとしない。
――僕を見ないで。でもこっちを見て。
相反する感情が沸き起こる。手を伸ばし、リュックごと抱き寄せた。僕の腕の中で悠里が息をのんだ。
「今日は悠里を見送らなくていいんだと思うと、幸せすぎます。このまま時が止まればいいのに」
「俺はやだよ」
ショックで打ちのめされそうになった。
――やっぱり僕が一方的に好きなだけで、悠里は僕のことなんて。
「だって、健人さんの料理、食べたいもん」
思考が悠里の言葉で遮られた。何を言われたのかとっさに理解できず、腕を離した。悠里があとずさって、僕の目をじっと見た。
「俺は、健人さんちの玄関で時が止まるのは嫌だ。健人さんが目の前にいるのに、いちゃいちゃもできないし、健人さんが用意してくれたご飯も食べられないんでしょ? 生殺しだよ。一緒に出かけたり、買い物したり、手繋いだり、もっともっとしたいのに。健人さんとやりたいこと、山ほどあるんだよ。それなのに、ここから一秒も前に進めなくなるなんて、そんなの、やだよ……」
僕は悠里を見返すことしかできなくなった。何か言いたいと思うのに、頭の中が真っ白で、言葉が思いつかない。その場に固まっていると、今度は悠里の方から抱きついてきた。
「健人さん、大好き。時なんて止めなくても、俺はずっと健人さんのそばにいるよ」
耳元で囁かれて、ぞくぞくした。ごくり。僕の喉が勝手に唾を飲み込む。悠里の手が背中を這い、僕の尾てい骨に触れた時、体がわずかに跳ねてしまった。
くすくすと悠里が僕の肩口で笑う。恥ずかしくなって、悠里を引きはがした。
「早く上がってください。せっかくの料理が冷めますから」
やってやった、みたいな勝ち誇った笑みを浮かべる悠里に背を向け、僕はそそくさと部屋の中に戻った。
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