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ショートケーキを召し上がれ 8
「ホールケーキ切らないで食べてると、なんだか悪いことしてる気分になる」
ソファに横並びに座り、左半身に悠里の熱を感じる。フォーク一本でケーキと格闘しているのを見守っていると、悠里がふとこちらを見た。
「健人さんも食べる?」
「遠慮しておきます。僕が食べたら、『丸ごと一個』食べたことにならないでしょう?」
「こんなことなら、さっきご飯おかわりしなきゃよかった。ケーキがあるって先に言っといてよ」
悠里が唇を尖らせる。あ、口の端にクリーム。このくらいなら味見しても「丸ごと一個」に支障はないだろうか。指を伸ばしてすくいとる。悠里がびくっと震えた。その顔を見ながら、指についたクリームをなめた。甘さがしつこくなく、あっさりしていて美味しい。
悠里が口をぱくぱくと開閉して、僕から目をそらした。僕は何食わぬ顔で会話を続ける。
「ケーキのこと、本当は先に言うつもりだったのですが、悠里が僕の料理をたくさん食べてくれるのが嬉しすぎて、つい黙ってしまいました」
「健人さんの料理、美味しすぎるから……」
「僕が料理を覚えたのは、悠里のためなので。悠里に『美味しい』って言ってもらえると、努力が報われたような気持ちになれて、嬉しいです」
悠里はちょっと怒ったみたいに頬を膨らませている。
「ごめんなさい。また僕、変なことを言って機嫌を損ねてしまいましたか?」
「……違う。恥ずかしいだけ」
「それなら良かったです」
「良くないよ! うう、俺ばっかり余裕ない感じ……」
そんなことないですよ、僕も同じです。言おうとしてやめた。悠里に告げるには、もっとふさわしい言葉がある気がして。
頬にそっと触れた。悠里の瞳が揺れる。
「大丈夫。悠里は余裕があってもなくても、かわいくて愛しいですから」
――これも違う。もっと別の言葉。
思いつかない。そのままキスをした。悠里の口内に残ったケーキをこそげ落とすように、歯と歯茎の間、歯茎と唇の間に舌を這わせた。苺もスポンジもクリームも、味わい尽くす。今まで食べてきたどんなケーキよりも甘美で、背徳に満ち満ちた味がした。美味しい。もっと食べたい。悠里から息なのか声なのか判別がつかない音が漏れる。僕の胸に手を当て、押してくるので、仕方なく舌を抜く。名残惜しくて、唇をちゅっと吸うと、悠里の体が跳ねた。
「やめて。まだ、食べてる途中、だから」
悠里が右手で口元を覆いながら、僕をにらんでくる。後悔に襲われ、血の気がひいた。
「すみません。苦しかったでしょう? 本当に申し訳ありません。悠里を目の前にすると、こんな風に、感情だけで突き進んでしまいます。僕が僕じゃないみたいになります。だから、余裕がないのは僕も同じです。好きです、悠里。どうしようもないほど好きなんです」
すがりつくように悠里の右手を両手で握る。
「あ、りがと」
悠里が小声で答えてくれる。そのあと、僕の手をやんわりと離してから、フォークを手に取った。
「そういえば、健人さんの分のケーキは?」
先ほどのキスなどなかったかのように、悠里がケーキに熱視線を送り始めた。少しだけ――いや、かなりケーキに嫉妬した。
「ありません。僕が買ったのはホールケーキ一個ですから」
「食べなくていいの?」
「いただきましたよ」
「へ?」
唇を引き上げ、悠里を見つめると、首を傾げられた。
「悠里の口の中の――」
「わーっ!」
悠里が突然大声を出したので、驚いた。
「どうしました?」
みるみるうちに悠里の顔が赤く染まっていく。
「だから、そういうとこだよっ! やっぱ俺の方が余裕ないじゃん。……健人さんずるい」
「何がですか?」
悠里は僕の方を見ようともしなかった。怒っているのか、照れているのか、ひたすらケーキを口に運ぶだけの機械と化してしまった。
――やっぱりケーキには勝てないか。
少ししょんぼりしながら、紅茶を飲む。鼻に抜ける香りを楽しみつつ、悠里がケーキを崩していく様を見守った。
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