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15センチではないけれど 2

「角巻くん。行こ?」 「ごゆっくりー」  山下くんが嬉しそうに手を振った。山下くんには、わたしたちが付き合っているように見えてるみたい。このまま「ほんとう」にならないかな、と思った。角巻くんが何か言いたげに山下くんを見つめて動こうとしないので、手首をつかんで歩き出した。 「ほら、行くよ」  角巻くんの体は一瞬びくりと震えたものの、手を振り払われたりはしなかった。ゼミ室を出て、給湯室までの数メートルをその状態で歩く。  周りからわたしたちはどう見られてるんだろう。恋人? それとも友だち?  手のひらに感じる角巻くんの脈拍が穏やかで、それがわたしを焦らせる。  ――角巻くんは、わたしのこと、なんとも思ってないの? 恋人なんて、嘘だよね? 合コンを断るための常套句でしょ? 角巻くんが誰かと手をつないだりキスしたりしてるなんて、信じない。信じたくない。だってわたしは、高校生の時からずっと角巻くんのことを見てきたのに。角巻くんに寄ってくる、顔目当ての女たちを牽制しながら、じりじりと距離を詰めて、やっとここまで仲良くなったのに。「中学時代にいろいろあって、それから恋愛には興味がないのです」と言っていた角巻くんに恋人がいるなんて、そんなこと、あるわけない。  手に力がこもってしまって、角巻くんがくぐもったうめき声を上げた。  気づいたら給湯室に着いていた。慌てて手を離す。 「ごめんね。大丈夫?」  振り向いて目を上に向ければ、角巻くんが少しだけ口角を上げた。 「大丈夫です。驚いただけですから」  知ってる。この顔、本当に言いたいことを我慢して、人に気を遣っている時の表情だ。  でも、この状態の角巻くんに何を聞いたって、本音をこぼしてくれたことはない。 「コーヒー、いれるね。洗うから、マグカップ貸して」 「あ、ありがとうございます」  角巻くんの手からカップを奪い取るようにしてから、蛇口をひねった。スポンジに水と洗剤をつけ、再び蛇口を閉める。壊さないように丁寧に、カップを泡だらけにしていく。  角巻くんは黙ってわたしの後ろに立っていた。 「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」  前を向いたまま話しかける。 「はい。何でしょうか」  声が震えてもいいように、水を勢いよく出した。 「恋人がいるって、本当?」  一瞬の間の後、「はい」と聞こえた。カップを落とさないように、指に力を入れた。 「そうなんだ。その人ってさ――」  出てくる水で、カップの泡をすすぐ。 「身長何センチなの?」  もっと気になることはたくさんあった。名前とか、年齢とか、性格とか、容姿とか。でも、わたしの口から真っ先に飛び出したのは、なぜかその言葉だった。 「えっと。身長、ですか?」  角巻くんも困ったような声だった。 「僕とほとんど変わらないので、170センチ前半だと思いますが。それがどうかしましたか?」  わたしは、唇を噛みしめる。  ――身長差が、ない? 角巻くん、身長低いわけじゃないのに、その人の隣に並んだら、小さく見えちゃうよ? もったいない。なんでその人と付き合ってるの? 15センチ差の方が絶対いいよ。キスもハグも無理なくできるし、二人で並んだ時の見た目のバランスもちょうどいいし……なんて。角巻くんはそういうの、全然気にしないタイプだったんだ。身長差にこだわっていたわたしがバカみたい。  とっくに泡は全て流れていたけれど、水を止めることができなかった。 「西川(にしかわ)さん、大丈夫ですか?」  後ろから角巻くんの手が伸びてきて、蛇口を閉めた。狭い給湯室に、静寂が広がる。 「ぼんやりしていますけど、体調が悪いのですか?」  気遣うような声が15センチ上から聞こえる。 「ううん。角巻くん、全然そんな話してくれなかったし、いきなりだったから、びっくりしただけ。そっかそっか、おめでとう。わたしも彼氏ほしいなあ」  無理やり目を細めて、頬を持ち上げて、くるりと振り向いた。ちゃんと、笑顔になれてる?  角巻くんは眉を下げて、困ったように笑っていた。言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。 「洗っていただいたので、コーヒーは僕がいれますね」  角巻くんは、わたしの手からカップを回収すると、食器棚を開けて、わたしのマグカップを取り出してくれる。一切迷うことなく、ピンクの小ぶりなカップを選び出した姿を見て、覚えていてくれてるんだ、と嬉しくなる。でも、この人はわたしではない人と付き合っているのだと思うと、切なさで胸が焼かれそうだった。

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