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第1章 8

 あの日から2週間近く経ち、幸村は既に夏野のことを忘れかけていた。  その日は夕方から土砂降りだった。むわっとした空気に眉を顰めながら、仕事帰りの幸村は鞄から取り出した折り畳み傘を広げて歩き出した。小さな傘では体全体を覆うことができず、濡れる肩を気にしながら、駅から自宅まで10分ほどの距離を早足で歩く。  ――急いだって、帰りを待つ人もいないのに。  ふとそんな考えが頭に浮かんで足を止める。ザアザアと降りしきる雨音の中、パシャパシャと地面を蹴って自分を抜き去っていく人々の足音が孤独を浮き彫りにする。  ――あぁ、猫飼いたい。 「幸村さん――」  ふと名前を呼ばれたような気がした。しかし、この辺りに知り合いはおらず、疲労と寂しさが産んだ幻聴だと思い、自嘲気味な薄ら笑いを浮かべて再び歩き始める。 「幸村さん、待って!」  どこかで聞き覚えのある低く通る声が今度ははっきりと聞こえた。振り返ると、傘もささずに大きめのボストンバッグを頭の上に掲げて、ずぶ濡れになりながら走ってくる男の姿があった。雨で視界が悪いはずなのに、大きくて丸い目が自分のことをじっと見つめているのがわかる。 「幸村さん、会えてよかった」 「夏野……」  目の前で立ち止まった夏野は、名前を呼ばれてホッとしたように目尻を下げる。  まるで、雨の日に捨てられた子猫が誰かに拾い上げられた時のようだと思った。  幸村がコンビニから帰ってくると、ちょうど風呂から上がったばかりの夏野と出くわしてしまい、思わず顔を背ける。 「全裸で出てくんな。ほらよ。パンツ買ってきてやったから」  袋から取り出した新品の下着を放り投げて、そちらを見ないようにしたまま部屋の中へと入る。全身ずぶ濡れだった夏野の着ていた物は今、全て洗濯機の中で回っている。 「ありがと。でも、わざわざ買わなくても貸してくれればいいのに」 「俺が嫌なんだよ。他人にパンツ貸すとか、ノーパンでズボン履かれるとか」  下着と一緒に買ってきたおにぎりやサンドイッチを机の上に並べて、夏野に座るよう促す。 「腹減ってんだろ?何が好きかわかんなかったから色々買ってきたけど」 「何でも好き。幸村さんのは?」 「俺は飯食ってきたから。全部食っていいよ」  夏野は一瞬だけ寂しそうに口を尖らせたが、すぐに笑顔になって「いただきます」と手を合わせた。ガツガツと頬張る姿を見ながら、幸村は濡れた髪から滴る水滴がTシャツを濡らすのが気になって立ち上がる。 「ちゃんと髪拭けよ。ってか、ドライヤーは?渡しただろ?」 「え?あぁ……めんどくさくて。暑いし」 「風邪ひくだろ。ただでさえあんな雨の中で……」  ぶつぶつと小言を言いながら洗面所に行き、ドライヤーを持ってきた幸村は食事を続ける夏野の髪を乾かしてやる。根元まで胡桃色の指触りのいい髪に触れながら、「地毛なんだ」と小さく呟いた。

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