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第7章 7
そこに着いたのは昼過ぎだった。重厚感のある木製の扉を押し開けて、まだ営業を開始していないバーへと足を踏み入れる。
「……あれ、晄君。よく来たね」
静井は驚いた顔を見せたが、夏野が抱えているボストンバッグを見て何かを察した様子で優しく声を掛けた。
「ごめん、忙しいのに……。掃除、俺にもやらせて」
「ありがとう。助かるよ」
夏野は静井の手から箒を受け取ると、何も言わずに床の掃き掃除を始めた。しばらく2人とも無言で掃除をしていたが、やがて夏野が口を開く。
「なぁ……もしかしたら、ここに迷惑を掛けるかも知れない」
「へぇ、どうして?」
「俺、またやったんだ。今度は、もっと酷いことを……」
静井は続きを促す代わりに、カウンターの中へ入って「何か飲む?」と尋ねた。夏野は咄嗟に首を横に振ったが、思い直して席に座る。
「やっぱり、最後に1杯だけいいかな。いつもの……」
静寂の中、氷を削る音が小さく響き、やがて夏野の前に氷とウイスキーの入ったグラスが静かに置かれた。
――綺麗。この氷は、まるで朝陽の心みたいに、透明で、角がなくて、キラキラしてて……。
「……彼の名は、幸村さんといったかな」
その言葉に夏野が驚いて顔を上げると、静井は優しく微笑んだ。
「これでも人の名前を覚えるのは得意だからね……。迷惑を掛けるかも知れないと言っただろ?晄君がここに連れてきた人のことだってすぐにわかったよ」
夏野は力なく笑い、ウイスキーを一口飲むと、泣きそうな顔をしながら口を開いた。
「なぁ、Neutralの人がCommandに従うことってあると思う?」
静井の手の動きがぴたりと止み、一瞬だけ張りつめたような静寂が訪れる。
「……従うはずないだろう。でも、もしも従ったのだとしたら……」
再び、カッカッカッカッという氷を削る涼しげな音が響き始める。
「彼の中にそうさせるものがあったんだろうな」
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