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第8章 1
「……ただいま」
誰もいない部屋に幸村の声が響く。夏野がこの部屋に住んでいた頃のことは、まるで夢の中の出来事のようだった。幸村の会社員としての生活は、夏野と出逢う前からずっと変わらず続いている。
あれから2週間近くが経過していた。あの繁華街にあるバーを1つずつ調べることで夏野と訪れた店を特定することはできたが、そこに行こうとしては足を止めるのを何度も繰り返していた。もしも出会えたとしても、夏野を再び不幸にするだけだという考えは時間を重ねるごとに強くなっていく。
クローゼットに残る夏野の匂いを嗅ぎながら、クシャッと笑う顔と自分を呼ぶ声を思い出す。早く処分した方がいいとわかっていても、幸村は夏野との思い出を1つも捨てられずにいた。
唯一、そんな幸村の心の支えとなったのは、公園で出会った胡桃色の毛皮を持つ新しい友達の存在だった。寂しさと後悔で胸がいっぱいになる夜は、こうしてあの猫に会いに行く。
大きな池に掛かる橋を越えて、芝生で覆われた広場を抜けて、幸村は迷うことなく歩き続ける。何度も訪れているうちに、あの場所への行き方もすっかり覚えてしまった。
「……ナツ、今日は来てくれたのか」
気まぐれな猫が姿を見せてくれるのは、3回に1回程度のことだった。触れることも餌をやることもできないが、時々こうして一緒に月を見上げているだけで十分だった。
「なぁ、ナツ。あの時、俺がお前にしたことを正直に話してたらどうなったかな」
幸村はSubになりすまして夏野とPlayした時のことを思い出す。
「そうすれば、Domのお前とNeutralの俺でも上手くやっていけるって思ってもらえたかな」
何度このことを思い出しても、結末は決して変わることがない。
「……無理だよな。お前、ほんとは自分が何したか思い出してたんだろ?そうじゃなきゃ、あのタイミングであんな手紙残したりしないよな」
Domとして――夏野が記したその言葉は、Neutralの幸村を受け入れることができないという気持ちの表れだろう。
ボロボロと大粒の涙を零し、くぐもった声を上げる幸村のことを、琥珀色の瞳がじっと見つめて「にゃあ」と慰めるような鳴き声を掛けた。
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