15 / 71
第15話
今朝、家を出た。もう帰らないと決めて。激しく喧嘩をしたわけでも、明らかな行違いがあったわけでもない。ただ少し、気不味くなってしまっただけ。気不味くなった理由だって、俺自身がアイツに隠し事をしている所為なのに、その彼の何気ない一言に食って掛かって、その後泣いた。そして逃げ出したのだ。この、喧嘩でも行き違いでもない些細な出来事を言い訳にして………そう、俺は逃げ出した。
でもそれは切っ掛けでしかない。この数ヶ月、ずっと考えていたけれど行動に移せなかった事を実行したに過ぎない。
二人の関係を終わりにしなくてはと、ここ二週間、ずっと思っていた。こんなに好きだけど、否、好きだからこそ、このまま一緒にいてはいけない。一緒に居続けることが自分の我が儘の様な気がしたからだ。秘密を打ち明けないままアイツの元を去るのは不誠実なのだろう。でも、それを言おうと思えば思う程、喉の奥で塊のように言葉が詰まって打ち明けられなかった。
本当の事を話せば、優しいアイツの事だから、そんな事は気にするな、これから先も一緒にいよう、と言ってくれるに違いない、と思う。………そうじゃない。これはアイツにそう言って欲しいと思う俺の願望だ。もし本当の事を話して、それなら、もう終わりにしようと言われたら?きっとこの先死ぬまで立ち直ることは出来ない。だから、それが怖くて何も言えないんだ。
それならいっそ、何も言わないまま消えて、自分勝手な奴だと浩介に嫌われて、忘れられてしまった方が良い。
今朝、目が覚めた時、昨日のままの体勢で二人向かい合っていた。起きているときは意思の強そうな目元も、眠っていると無防備で頼りなく見える。自分にだけ見せてくれる素の表情が愛おしい。
膝を曲げて少し丸まって、胸に顔を埋めてくる、少し年上の恋人の眠る様子はとても好ましく、思わずシャンプーの香りが残る髪に優しく口づけた。「浩介?」と小さく名前を呼ぶ。「どうしたの?」と返事をして欲しいのに、急に昨夜の事を思い出して、居た堪れない気持ちになった。
抱きしめていた腕をそっと浮かせて避 けて、布団をかけ直し、自分は静かにベッドから出た。顔を洗ってキッチンに行くと換気扇を回してその下に立つ。煙草に火を点け何度かふかして肺に吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。朝食でも作ろうか、そう思って冷蔵庫を開け、サラダ用のカット野菜の袋を取り出そうとしたけれど手が止まってしまった。
冷蔵庫の扉を閉め、もう一本、煙草を出して火を点ける。立ち昇る煙が換気扇に音もなく吸い込まれて行くのを眺めながら、浩介が起きたら何を話そうか考えた。でも、いつも通りに笑う自信がなかった。昨夜、浩介は俺の言い訳を嘘だと見抜いていた気がする。会社で嫌な事があったなんて見え透いた嘘を、浩介ご信じるはずがない。じゃああの行動は?そう問われれば、うまく言い訳も出来そうにない。
本気で浩介と別れたいなんて思ってないし、いつまでも浩介の傍に居たいけれど、今抱えている秘密を隠し通すなら、別れるしかない。
気が付けば、着替えと全財産が入った通帳と浩介とのツーショットの写真立てを、小さな旅行バッグに詰めていた。寝室のドアをそっと開けて部屋を覗くと、浩介が先程と殆ど変わらぬ体勢で、静かな寝息を立てていた。
「浩介…」
再び名を呼ぶ。浩介が起きないように小さな声で。そして更に小さく、サヨナラと言った。
ともだちにシェアしよう!