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第20話
コンロに乗ったカレーの鍋はまだ熱かった。渉が帰ったのはそれ程前ではないのかもしれない。このカレーは荷物の処分代という事か?鍋一杯のカレーを見て、馬鹿にされたものだと、私はなんとも言えない腹立たしい気持ちになった。
そして、こんな季節にカレーの作り置きなんて、食中毒舐めてんのか?と悪態をついてみる。こんな量、二人でだって3日以上掛かるのに、一人で残された私にどうしろと言うのか。一人で寂しくカレーを口に運ぶ私を思い浮かべなかったのか。腹が立って収まらず、鍋の中身を捨ててしまおうか、そんな衝動に駆られた。でも、それは出来なかった。
カレーを作る時の渉を思い出したのだ。いつも渉は楽しそうだった。野菜を切って、香辛料を油で煎って香りを立たせて、野菜を炒めて、煮込んで、そう言う工程全てを楽しんでいた。そんな渉が意地悪な気持ちで作るはずがない。それに渉はカレーを作る時、いつも大量に作っていたから、きっと、いつもの癖、だったのだろう。
だから、これは料理をしない私に対する渉の優しさだ、出ていった事へのせめてもの謝罪なのだと思い直した。だからといって、一人分の荷物の処分代としたら安すぎるけれど。
そんな風に考えていたら、腹立たしさも絶望的な気持ちも落ち着いて、空腹だった事を思い出す。腹の虫がうるさく鳴いて、目の前のカレーが無性に食べたくなった。
冷凍の白飯を温めてカレーをかけた。この白飯も、渉がいた頃に小分けに冷凍した一つだ。暫くちゃんと食事なんてしていないから、一月近く経ったというのに殆ど減らずに残っていたのだ。これを見れば、私の食生活は渉には手に取るように分かっただろう。出て言っても尚、私の事を心配する渉を思って、これまでずっと、迷惑をかけてきたのだと思った。
スプーンで掬い、一口食べる。じっくり噛みしめれば、間違いなく、渉が作るカレーの味だった。こうしていると、今にも渉が顔を覗き込んで
「今日のカレー、どう?美味い?」
と問いかけてきそうだ。そっと目を閉じカレーを味わいながら、瞼の裏にだけ見えるその姿に「美味いよ。」と答えた。
渉は何時に来たのだろう。荷物を片付けてカレーを仕込んで、ここでどれくらいの時を過ごしたのだろうか。渉の部屋を見ると大きな家具以外は皆ごみ袋に分別されているが、相当な量が置き去りだ。持ち出したのは必要最低限ということか。それは新しい恋人でも見つけて、そこに転がり込んだと言う事なのかと想像して、妬ましい気持ちになった。
それにしても、仕事はどうしたのだろう。平日の昼間に、有給でも取って来たのか。そんなに私と顔を合わせたくないのだろうか。それはそれで辛いものがある。そこまでの事をした覚えが全くないし、出て行く直前まで、円満に暮らしていると思っていたのに……それは私の思い上がりなのか。お互い幸せに暮らせていた、なんていうのは私の独り善がりで、勝手な妄想なのだろうか。
でも、何を取っても、腑に落ちない事だらけだ。これまでの渉とは違いすぎる。行動が不自然で、二十年来知っている渉と別人のようだ。私の知っている渉なら、こんな風にこそこそと、人の居ない隙を狙って片付けに来たりしない。せめて、直接会って荷物を頼むと一言言ってくれたなら………。それでも到底納得出来ないけれど、少しは気が収まるというものなのに、どうして会ってくれないのだろう。
帰ってきてくれ、渉。会いたいんだ、お前に。
そう思うと堪らなくなって、直ぐにスマホをタップして渉に電話を掛けていた。しかし、何度コールしても、渉が出ることはなかった。分かっていたのに。繋がらないと分かっていたのに、堪えきれず掛けてしまった自分自身が情けない。そしてもう一度キッチンに目をやって、そこに立つ渉の幻影を見る。その後姿は何故か泣いていた。
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