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第31話

 浩介と暮らしていた家を出て、この家に来たときは、まだ真夏だった。築40年を超えるこのボロアパートの一室は、エアコン完備とは名ばかりの旧式のそれを、フル稼働させても到底涼しくならず、窓を開けっ放しにした方がマシなほどだった。昼間たっぷり太陽光を浴びた屋根は、天井まで熱を伝えて夜中室温を上げ続け、冷やした先から暑さを上書きする有様で、防犯なんてお構いなしに窓全開にして過ごしたのだった。  しかし、今、10月も半ばになって、暑さも和らいで過ごしやすくなってきた。夜になって窓から入ってくる風は涼しく、冷え過ぎるくらいだ。  4ヶ月前に行く宛もなく家を出た俺は、間もなく始まる治療と、先の見えない生活の不安を抱えながら、数日間会社のソファーで寝泊まりしていた。でも、それ程経たない内にその事に気づいた社長が、見兼ねて此処を紹介してくれたんだ。  このアパートは社長が所有する不動産の一つだが、土地柄に似合わない古く汚らしい建物で、家賃は安いものの借り手がつかず、残り一年半で取り壊されるらしい。一つの階に5軒、二階建ての建物の住人は、俺も含めて僅か3人。契約期間満了で退去するよう、話はついているという。だから、俺も次の家が見つかるまで、と言う条件付きの入居だった。    社長は、俺の病気の事を知っているから、環境が悪いんじゃないかと心配してくれたけど、俺自身は本当に助かっていた。此処からなら会社にも歩いて行けて、体調が良くないときは、タクシーに乗れば直ぐだし、紀が資料を持ってきてくれたり、付き添ってくれれば、在宅で作業を進める事も出来た。お陰で何とか仕事と治療を両立出来たけど、もしこれが電車通勤だったら、仕事は続けられなかっただろう。それに、このアパートの昭和感溢れる佇まいが堪らなく好きだった。それから、ボロボロの外観とか錆びた鉄階段とか、これから朽ちて自然に還ろうとする感じが、今の自分と重なって見えて、真新しい建物に住むより、自分に似合っている気がした。治療の結果は悪くなかったけど、何となく………分からないけど……何となく、自分の方がこの建物より早くこの世から居なくなる様な予感もある。だから、積極的に次の家を探すこともしていないし、まだ、もう少し住み続けるつもりなんだ。  そんなこんなで、昨日、週一回の4ヶ月に渡る投薬治療が一旦終了した。その間、口内炎や吐き気等の体調不良から始まって、食欲不振に見舞われた。体力は落ちているし、食欲もないために、体重も落ちて、自分で見ても自分じゃない様な顔付きになったし、治療を受ける前に坊主にしてしまったものの、髪も抜けて、眉毛も無くなってしまったから、随分風貌が変わったと思う。それでも、仕事には週3から4日は行って、日常生活も送っているんだ。初めのうちは、心配していた会社の仲間たちも見慣れたようで、普通に接するようになった。社長の理解もあって、自分のペースで働かせてくれるから、どうにもならなくなるまでは働くつもりだ。それに、どの道働かなくては生きていけないし、治療費もはらえないんだから。  病気になって余命まで宣告されてから、頑張れるときには頑張ろう、とか、「俺、頑張って生きてるじゃん。」とか実感する事もあるんだから、自分の事ながら不思議だとは思う。 こんな前向きな気持ち、健康だった時には全く思わなかったのだから。  でも、今日は、治療終了して気が抜けて、会社を休んでしまった。治療は思いの外順調で、これから定期検査をしながら手術が出来るか判断していく事になるという。抗がん剤が抜ければ、これからは体が回復していくだろうし、楽な日が増えてくるだろう。  今、浩介が此処にいたら、治療を終えた俺に何と言ってくれるだろう。本当は頑張ったねと抱きしめて欲しいんだ。自分から捨てたのに、浩介の事が恋しくて堪らない。普段は、自分で選んだ事だからと浩介を思うことを自分に禁止していたんだ。でも、治療を頑張った見返りとして、今日くらいは浩介の事だけ考えても良いだろうか。

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