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第39話
渉が笑顔だった。あんな表情、いつ見ただろう。何だかとても幸せそうで……無性に妬ける。やはり、渉は私を捨てたのだ。そして新しい年の離れた相手を見つけて呑気に暮らしているんだ。捨てられた私の気持ちなどお構いなしに。
何とも言えない喪失感、失望、絶望が黒い渦になって胸に広がってくる。腹立たしい様な悲しい様な言い表せない感情に押し出されるように涙が溢れて視界を歪める。
早く立ち去りたい、そう思うのに、その場から立ち上がることもできず、蹲っていると、通りがかりの年配の女性が心配して声をかけてくれた。泣きながら肩を震わせているのが、具合悪そうに見えたのだろう。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。すみません、大丈夫ですから…」
「貧血かしらね、ちゃんとご飯食べてるの?最近の若い人は、食事に無頓着だから。」
と決めつけて掛かってくるのに対して
「ええ、まあ………それなりに…。もう、大丈夫ですから。」
と、バツの悪さを紛らす様に、煩わしげにその女性を拒否して、ありがとうございますと言って、来た道を引き返し始めた。
『最近の若い人』という言葉に、何となく傷付いた。彼女から見れば見れば多少若いかもしれないが、世間的に見れば大して若くもないという事が、今はすごく不幸なことのような気がしてならない。それに、大の男が道端で泣いているなんて、笑いのネタにもならないだろう。
だから、背中の方から「そう…気をつけてね。」と言う老女の声が聞こえて来ても、振り返りもせずに歩き続けたのだった。
電車に揺られ、ふと窓に目を遣ると、険しい表情の男と目が合った。窓ガラスに映る自分自身だった。シワも増えてハリもなく、すっかり疲れ切っている。松井が馬鹿にする訳だと納得しつつ、さっきの渉の連れとは到底張り合えないと思った。
私とは全く違うタイプの若い男の子。少し中性的で、可愛らしくて、純情な感じで……私と似ている所なんて一つもない。腕を絡め合い、仲睦まじく歩いていく二人の後ろ姿、嬉しそうな渉の笑顔。幸せそうに見つめ合う二人の横顔、きっと、今、渉は彼と幸せに暮らしている。
考えるのを止めたいのに、あの情景が瞼に浮かんで、思考を止められなくて、渉とあの青年の事を考えてしまう。流れていく車窓の景色を見るともなしに眺めながら、もう潮時かな、と考えた。待ち続けるのも思い続けるのも、もうとっくに疲れているんだ。渉の匂いのする物に囲まれて、渉の思い出を抱きしめるように今日まで何とか暮らしてきたが、それにもすっかり疲れ切っている事に、今、強烈に気付かされている。でも、そうしている事だけが生きる意味だったのに、渉を諦めてしまったら私はどうやって生きて行けば良いのだろう。
でも…………新しい恋人が出来たなら、一言言ってくれれば良いものを。私だって大人だし、人の気持ちが変化してしまう事を止められない事だって分かっているつもりだ。幸せになれよなんて、物分りの良いことは言えないにしたって、忘れてやる事ぐらいは出来るのに。
家に戻ってからも、渉の姿が思い出されて仕方が無い。それにしても、随分痩せていた。体調を崩したのだろうか?それとも、若い恋人のためにダイエットをしたのか。
そして、また思考は戻って仲睦まじい二人の姿を思い出す。一緒にいた男への嫉妬で心が潰れてしまいそうだった。
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