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第40話
東西に伸びるこの緩やかな坂をゆっくりと登って、道を真っ直ぐ行けば会社に辿り着く。会社までのこの距離が、治療中だった先月は永遠に感じられていたけれど、今はそれ程でも無くなった。時間にすれば半分位の速さで歩くことが出来ているから、自分としてはかなり上出来だ。
今朝は体調がイマイチで部屋に籠もっていた。ここ数ヶ月は体調の波が大きくて、会社へ電話をして「今日は、休む。」と一言伝えれば、誰に繋がっても「了解でーす。」と言われるだけだ。どうしたんですか?なんて聞く奴はいないから、本当に気が楽だ。
一日ゆったり過ごして、日が陰る頃になって、身体が楽になり、今は夕暮れ間際の時間だけど会社に行こうとしている。仕事に使う資料を取りに行くためだ。
朝の天気予報通り、日中は暖かかった様で、その暖かさの名残がまだある。
今住んでいる家も、日中は南向きの窓から日が差し込み、室内はぽかぽかと暖かく暖房も必要なかった。でも、びっくりする程、隙間だらけな所為で、日が陰ると一気に気温が下る。直射日光が当たらないと途端に寒くなって、厚手のセーターを着込み電気ストーブを付けなくてはならなくなるんだ。だから案外、外の方が暖かいかもしれない。
でも、時間が時間だけに、刻々と気温は下がっているらしい。歩く毎に寒くなる。立ち止まって、被っていたニット帽を深く被り直し、また歩き始めた。坊主頭が寒くて、最近愛用しているものだけど、肌触りも良くて案外気に入っている。髪色を変えられない分、帽子で楽しもうと幾つか購入したが、結局、被り心地の問題で、この一つに定着してしまった。
歩きながら、職場に、これから行く事と出して置いて欲しい資料の連絡をする。電話を受けた同僚が、家に居たら届けてあげるのに、と言うのに、
「良いの良いの、身体が動かしたいだけだから。」
と答える。この所、そうやって甘やかされて、めっきり運動量が減っているのも事実だった。それに、家に一人で居たって、楽しみなんて殆どない。短い時間でも、皆が楽しそうに、でも、締切に追われて必死に仕事をしている様を眺めたいんだ。
電話を切って、スマホを尻のポケットにしまい、ゆっくりまた歩き始めると、前方に一人男性が立っているのが見えた。辺りが暗くなり始めて見えにくいが、何処となく佇まいが浩介に似ているその人は、道に迷ったのか後ろを振り返ったりしながら、スマホを見ているらしい。と言って、はっきり見えていないから、定かでは無いけど。このまま歩いていけばすれ違うだろうし、困っているなら助けて上げようか、等と思っていたときだった。
向こうからパタパタと走り寄る足音が聞こえて来て、「佐々木さん!」と名を呼ばれる。紀の声だ。
紀が駆け寄りながら、
「持って来いって言ってくれたらすぐに飛んでいくのに!」
と少し咎めるように言うので戸惑って視線をそらす。その時、先程の男性がこちらを見ているのと目があった気がした。
しかし、すぐに紀が側まで来て、
「資料です。」
と目の前に見せるので、意識は直ぐに紀に向いてしまう。そして、目の前の資料を受け取った途端、少しふらついて、蹌踉けるのを紀に支えられた。少し歩いただけで、こんな風になるのでは、心配されても仕方ない。
「全く、油断するとコレなんですから、気を付けて下さいよ。だから家で待ってれば良いのに。」
ニコニコ笑いながら言うが、その目の奥には心配の色が伺える。
「家まで送って行きますから。僕に掴まっててください。」
と、しっかり腕を掴まれる。
「大丈夫。一人で帰れるよ。ジジイ扱いするなって。」
そう言いながらも、こうして世話を焼かれるとつい笑みが溢れてしまうのは、自分の弱さだ。
紀に腕を取られ支えられながら、また、ゆっくりと家に戻る。その間、紀は今日の事件を楽しげに話しているが、俺はそれを笑顔で聞きながら、罪悪感を感じるのだった。
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