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第45話
下手くそに唇を押し付けてくる紀が愛おしさを感じながら、その暖かさに失ってしまったものの大きさと、受け入れれば手に入るものの存在の近さを感じて、また涙が溢れ出した。
でも、やっぱりだめだ。唇を離し、紀を胸に抱き寄せる。
「ごめんね。付き合わないって言ってるのは俺の方なのに、こんな事。」
しかし、紀は、
「僕なら構いません。好きになってくれなくたって、佐々木さんが求めるなら、身体だって差し出す覚悟は出来てます。」
と言う。
「そんな事言っちゃ駄目だよ。こんな酷いヤツ、許しちゃ駄目だ。ちゃんと怒らないと。」
そんな俺に、
「怒れる訳、無いです。だって、こんなに好きなのに。何で駄目なんですか?まだ、前の彼が好きだから?僕じゃ頼りになりませんか?」
紀は声をあげる。
「そんなの、一時の気持ちだよ。直ぐに心変わりするさ。」
紀を胸に抱きしめると、悪い子だね、と紀に責任を転嫁する。
ふと、昔の記憶が蘇る。養父にも同じことを言われた事があった。俺が父に恋をしていた頃の話だ。
高校生の頃、ずっと前から父に思いを寄せていた事が母にバレて家にいられなくなった俺は、一人暮らしを始めたんだ。母に対しては強がっていたが、実際、一人での生活は不安で堪らなかった。そんな俺を心配して、父は会社帰りに時々様子を見に寄ってくれていた。
ある日俺は、メシは食ったか?とコンビニの弁当を差し出して笑う父に思わず抱きついていた。父は振り払うこともしないで背中を擦ってくれた。俺は、そんな父の唇に自分の唇を押し付けて無理やりキスを強請ったんだ。困ったような父の顔が今でも忘れられない。父は優しく肩に触れてゆっくりと体を離すと、
「悪い子だね、大人を誂うなんて。さぁ、ご飯にしよう。」
と言った。
「誂ってなんかいない!」
俺は大きな声で反論したが、
「そうだったね。ゴメンな。」
そう言って何事も無かった様に、父は弁当をテーブルに置いた。その後の無言の食事が気不味くて、顔さえ上げられなかった。
食事を終えた時、それまで黙っていた父が、訥々と話し始めたんだ。
「お前のお母さんと結婚した時、この人を一生幸せにするって決めたんだよ。その子供のお前も一生大切に幸せにするって。お前の気持ちに気が付いていない訳じゃなかった。気が付かない振りをしてた。今まで向き合ってあげなくてゴメンな。」
真剣な、そして優しい眼差しは今でも忘れない。俺は、その時、諦めなくちゃならないんだと悟った。それまで、ほんの少しだけ、母ではなく自分を選んでくれるのではないかという淡い期を持っていたが、自分の勘違いだった。そして、初恋が終わった。
そんな昔の自分と、紀の事を重ね合わせても、同じ部分なんて殆どないのに、紀がその頃の自分みたいで、不憫でならない。実らない恋とこんなにも真剣に向き合う彼が、いつか幸せになることを願って、ぎゅっと抱きしめる。
「紀くん、駄目だよ。誘惑しちゃ。俺みたいなオジサン、つまらないよ。もっと、紀くんの事を大切にしてくれる人を見つけなくちゃ。」
でも、紀は何も言わず、泣いていた。
そして、一頻り泣いた紀が、静かに言った。
「もう、寝ますね。明日も仕事ですもんね。」
泣き腫らした目を、無理やり細めて笑顔を作る。
再び、それぞれの寝床に戻り、静かに朝を待った。眠れないなと思っていたが、やはり、何処かで、眠りについたらしい。朝方、目を覚ますと、もう、紀はいなかった。
『何も言わずに帰ってすみません。今日からもちゃんと、仕事のアシスタントしますので、よろしくお願いします。』
そう書かれた置き手紙が、机の上に残されていた。
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