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第48話
そして、その日以來、景色に色も音もなくなった。感情を何処かに置き去りにしてきたみたいに、悲しいことも腹立たしいことも感じない代わりに、嬉しい事も楽しい事もなくなった。今まで通り日常を送れているのは、単に長年染み付いた習慣故だ。
すると何故か、部下たちから優しくなったとか、丸くなったとか言われるようになって、松井からは、
「橋本さん、明るくなりましたよね。皆喜んでます。夏頃は近寄るなオーラが出てましたからね。」
と遠慮のないことを言われている。
自分では、そんなつもりはなかったが、周りから見てそうならば、そういう事なのだろう。確かに渉が出ていった後暫くは、必要最低限しか人と関わりたくなかったし、話すのも億劫で、人を遠ざけていたかも知れない。そう言う胸の内が、松井の言う『近寄るなオーラ』だったのなら、私に色々指示を仰がねばならない部下たちは、きっと、気を遣っていたことだろう。
そして、明るくなったと見えるのだって、実際はそうではなく、単に他人に関心が無くなって、苛々しなくなった、と言うだけの事だった。
毎日、休まず普通に会社に行って、作業工程に従って、部下の進捗を管理し、客先からの無理な要望も聞き入れながら工程表通りに仕事を進める、只それだけだ。勤続25年も過ぎると、毎年毎年何かトラブルが起こるが、均してしまえば大体同じような一年で、今年もその中の一年に過ぎない。
仕事中に、部下の失態や客先の無茶振りに、嫌な気持ちになることもなければ、それをクリアしたとて達成感を得ることもない。
それは、自分自身の事なのに何処か別の人間の暮らしを覗いているような、現実離れした感覚で、すべての器官が麻痺しているというか、何だかジワジワと痺れて居るような、曖昧な感覚の中を生きている気分だった。
しかし、現実問題、こなさなければならない仕事の山を片付けるのに精一杯で、私情を持ち込んでいる余地などなかったのも事実だった。これでミスがあれば目も当てられないが、幸い間違いをせずに仕事をこなせている事が救いだった。
昼休み、缶コーヒーと菓子パン一個、タバコを持って屋上に上がる。前はこの屋上に毎日のように足を運んでいたが、最近はあまり来ていない。その理由は、数年前に屋上以外に部屋の中に喫煙ルームが設けられたことと、歳を重ねて暑さにも寒さにもめっきり弱くなってしまったからだ。
久しぶりに見る景色は、以前とあまり変わっていない様だった。雑居ビルと住宅街の屋根が連なっているのも相変わらずで、都会の真ん中に近いはずなのに、住宅とオフィスビルが混じり合った中途半端な景色だ。
フェンスに凭れながら、先ず、煙草を一本吸う。食事が先か煙草が先かと聞かれたら、間違いなく後者と答える程度には、欠かせないものだ。少し向こうの空に飛行機雲がたなびいているのを、無心で眺めながら、今日も明日も、同じ様な一日なのだと思う。そんな事を思えば、以前なら自分の人生そのものが虚しく感じられたけれと、今はきっと、皆大して違わない人生を送っているんだろう、と思える。
煙草を一本、吸い終わって、作業着のポケットに手を突っ込むと、カイロがわりに入れてあったホットの缶コーヒーは、気がつけばもう冷め始めていた。温くなったコーヒーは飲む気になれず、それと同時に菓子パンも要らなくなってしまった。空腹感もまた、最近麻痺してよくわからないから、それでも構わなかった。
再び飛行機雲に目をやると、上空は風が強いのかも知れない。少しずつ、その線形が滲み始めていた。結局、次の煙草に火を点ける。昼食は煙草、二本か……と自嘲しつつ、それを吸い終わると、仕事場に戻った。午後一で外出する、その準備をしなくてはならない。まだ昼休憩も30分以上残っているから、準備には十分だった。
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