51 / 71

第51話

 午後4時前に会社に戻った。  帰り道、松井が谷口の事をしつこく聞いて来たが、曖昧に答えてやり過ごした。谷口とは、会社の部下に話せるような間柄ではないからだ。それよりも、私としては今日の会議で上がっていた修正点について、話を詰めておきたかった。年度末にスムーズに納品する為には、やれることは早目に終わらせなくてはならない。今話しておけば会社に戻れば直ぐに作業に取り掛かれる。そう思って、こちらはそれとなく仕事の話に戻すが、松井は面白くないらしい。仕事の話が終わると、また松井が話を蒸し返した。こちらの気持ちも知らないで、困ったものだ。 「で、行くんですか?」 「普通、行かないだろ。」 「何でですか。行けばいいのに。」 「お前、面白がってるだろ。」 「そんなことないですけど。……でどういう関係ですか?あの人。」 「昔の知り合い。」 「……昔の恋人?」 「全然違う。」 「…………」 そして、会社に着くまで同じ様な会話を繰り返す。松井は、どうも私と谷口が、元恋人関係なのだと勘違いしているようだ。そして、渉と別れて傷心している私をどうにか立ち直らせたいと言う、上司愛とでも言うのか……まぁ、とにかく『大きなお世話』なのだが、そもそもの設定が事実と異なっている為に、話が噛み合わない。  しかし、私自身も胸の内ポケットに入った先程の名刺が気になって、落ち着かなかったのは確かだった。会社に戻って自分の席につくと、後4時間か……と壁の時計に目を遣って溜め息をつく。  午後8時にホテルのラウンジ…………谷口は何を考えているのだろう。これではまるで、あの頃のようじゃないか。谷口と最後に会ったのは、もう20年近く前のことだ。偶然だとしても再会していきなりこんなメモを寄越すには、年月が経ちすぎている。ただの昔話をするためなら、わざわざホテルのラウンジを指定しなくても、その辺の居酒屋でも良いのだから。  否、あの頃の事なんて気にするまでもない事から、何の蟠りもなく、ただ飲もう、と言う事なのか。  しかし、昔の友人なら尚更、松井の言うように、何も考えず行けばいいのかもしれない。それに、向こうが勝手に誘ってきたのだから、行く義理もないし、懐しい気持ちで語り合いたい昔話があるわけでもない。どちらかと言えば、もう二度と会わなくても構わない相手だった。でも、それを軽く流せないのは自分自身に蟠りがあるからだ。  パソコンに向かいながら谷口の事をあれこれ回想するが、あまり良い思い出はなかった。仲が悪いとか好きじゃないとか、そう言うことではなく、『近すぎた』というのが一番の理由だ。私は、谷口の真意を測りかねていた。考えれば考える程、感情を揺さぶられる様で、嫌な気分だ。感情の波を久しぶりに感じた気がして、仕事中も気分が悪い。だからこそ、気持ちを確かめたいような気もした。どういうつもりなのか、はっきりさせたい。ここで再開したのも何かの縁なのかも知れない。それで、ここは腹を括って会いに行こうと決心した。  8時の待ち合わせなら、7時半に出れば丁度か、少し待たせるくらいで到着できる。もちろん、先に着いて待つつもりは無い。人を待たせるなんて仕事や他の友人なら有り得ないが、谷口に対しては、そんな配慮は必要ない。谷口とはそんな間柄だったのだ。  しかし、松井には知られたくない。私が会いに行ったと知れば、休み明けに、ことの詳細を根掘り葉掘り聞かれるだろう。松井に気付かれないうちに帰ろうと見回すと、作業台の近くで、アルバイトに指示を出しているところだった。  それを見て、7時半に出るならそろそろ仕事を切り上げるか、と最後に資料の印刷をすることにした。

ともだちにシェアしよう!