52 / 71
第52話
しかし、プリンターの調子が悪いのかネットワークの問題か、印刷される気配がない。仕方なく、バタバタと下のフロアに行き、システム課の若者に声をかける。こんな時、うちの課の奴なら一言、何か言いたがるところだが、システム課は上司が敬われているのか……皆礼儀正しい。快く直ぐに見に来てくれた。が、結局直らず業者に連絡をした。
それから待つこと40分、メンテナンスの業者が来た頃には7時半はとっくに過ぎていた。業者が作業している間に別の案件の報告書をまとめながら、プリンターの復旧を待つが、時間が気になって、あまり捗らない。途中、プリンターの件ほ若い奴らに任せて帰ろうかと思ったが、皆も自分の仕事を抱えている。上司だからといって余計な仕事をさせるのはワガママだろうと思い直した。
時間は刻一刻と過ぎていく。谷口に会いたいなんて思ってもいないのに、会えないとなると、がっかりするのは何故だろう。谷口の顔がちらついて気分が悪い。なんで私があんな奴のために、気を揉まなくてはならないのだろうと、腹立たしい気さえしてくるのだ。
それから、業者に終わりましたと声をかけられて、直ぐに資料を印刷し、内容を確認して……気付けば待ち合せの時間はとうに過ぎて、8時半になろうとしていた。
その時点で気持ちは切れてしまった。
まぁ、良いか、行かなくたって何か困る訳でもない。そう思って顔を上げた時だった。何か言いたそうにこちらを見ている松井がそこに居にいたのだ。残業組に夕飯の出前の注文を取って回っているらしい。手に近所の中華屋のメニューとメモ用紙とボールペンを持っている。此処に来たのは、ついでのようだが、
「橋本さん…はいらないですね。」
と一応確認するが、それも私と話す口実なのだ。そして、
「行かなかったんですね、待ち合わせ。」
と松井が言った。
「行くつもりはなかったからね。」
私が事も無げに言うと、
「嘘ですよね。ずっと時間気にしてたじゃないですか。」
と、私の言い様に気に入らないといった様子で突っかかる。いつも軽薄な松井にしては珍しい反応だ。それにしても、離れた場所でアルバイトと話していたのに、いつ見ていたんだろう。しかし、そんな私の反応はお構い無しに松井が続けた。
「あの人、まだ居るんじゃないですか。」
そうだろうか。一杯飲んでさっさと帰れば、9時には店には居ないだろう?谷口の事もよく知らないだろうに、何故そんなに自信を持って言えるのだろうか。
松井が私に何をさせたいのか、理解できない一方で、心の内を見透かされて居るようで気持ち悪い。結局、問い掛けには返事をしないで、
「じゃあ、お先に。」
と出ていく私に、
「まだ間に合いますよ。」
と松井が背中から声を掛けた。
しかし、松井に言われたから、という訳では無いが、私も何となく気になった。もしかしたらまだ居るかも知れない。昔は大して気の長い奴でもなかったから、1時間も遅刻すればもう帰っているだろう。しかし、このまま帰れば、週末気になって落ち着かないまま過ごさなくてはならない。明日は土曜日だから、平日の様に仕事で気を紛らす事も出来ない。それもまた、気分が悪いじゃないか。
そんな言い訳を自分自身にしながら、気が付けば、ホテルに向かっていた。ホテルのロビーに着いた時には、既に午後9時だった。こんなに頑張って馬鹿みたいだな、と思いながらエレベーターに乗る。だが、ラウンジに居なければ帰ればいいだけだ。そう、居ないことを確認するだけ。そう自分に言い聞かせてエレベーターを降りた。
しかし、まだ谷口はそこに居た。奥にあるカウンターに一人、バーテンダーと楽しげに話す横顔が見えたのだった。
ともだちにシェアしよう!