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第56話
目を瞑り、首筋に触れる谷口の唇の感触と体温に意識を向ける。耳元で、唇が吸い付いては離れる湿った音が繰り返し響くと、私の口から、甘ったるい吐息が漏れた。
それが合図だった、とでも言うように、性急に体を反転させられると、欲に飢えた谷口と視線が絡み合った。窓ガラスに押し付けられるような形で、身動きが取れない。が、端からこちらも抵抗するつもりもない。それでも、絶対に逃さないとでも言うように、がっしりと肩を掴んで近づいてくる谷口の後頭部を、自分から掴んで引き寄せ、深く口づけた。
シャンパンの味がする舌を擦り合わせ絡め合い、唾液を送る。荒くなる呼吸と共に一気に気持ちが昂って、互いを求め合ってベッドに倒れ込んだ。が、私はなけなしの理性を手繰り寄せて、谷口にストップをかける。
「ごめん、シャワー浴びたい。」
耳元でそう囁くと、深いため息をついた谷口が、渋々頷く。
一人、バスルームに入って着ていたものを脱ぐと、大きな鏡に映る自分と目が合った。唐突に沸き起こる、ざわざわとした焦燥感の様な、後悔の様な、なんとも嫌な気持ちが心を覆う。その気持ちの正体が何なのかよく分からず、自分の顔を見つめた。
そこに映る私は、痩せこけて肋が浮いて、なんてみすぼらしいのだろう。自分の裸に興味は無いが、これはあまりに酷い。こんな姿を見て、果たして谷口はまだ私を抱きたいと思うだろうか。……とここまで考えて、ふと気が付いた。
そんな事はどうでも良いのだ、と。そうだ、谷口がどう思うかなんて、この嫌な気持ちの正体ではないのだから。
それは恐らく、ほんの少しだけ残っていた渉への未練だ。でも、今日谷口に抱かれてしまえば、きっと忘れられる。昔そうやって忘れたように、今回も同じようにすればいい。ただ、昔の自分に戻ればいいんだ。渉だけを思っていた自分は、きっと偽物だったのだ。
そう思うと、すっと心が空になって、先程までの嫌な気持ちは消えていった。
バスタブに入り頭から熱い湯を被る。そして、私は機械的な動作で全身を隈なく洗い清めてローブを羽織ってバスルームを出た。
しかし、部屋を見回しても谷口が起きている気配がない。そろそろとベットサイドに行くと、こちらに背を向けて、裸で布団に入って横になっている谷口が見えた。
「シャワー、空いたよ。」
声を掛けるが返事がない。仕方なく側に寄ると、微かに寝息が聞こえる。待っている間に寝てしまったらしい。準備したこちらの気持ちも知らないでいい気なものだ。肩透かしを食らった気分だが、わざわざ起こす必要も感じなかった。
だからといって帰る気にもなれず、先程のシャンパンをグラスに注ぎ窓辺に移動して、夜景を見ながら飲み始めた。それだけでは手持ち無沙汰で、背広のポケットから煙草を取り出し、灰皿を探す。が、それがあるべき場所に置かれた『No smoking』の小さな表示が目に入って、舌打ちをした。昔は谷口だって喫煙者だったのに、家族が出来て健康を気遣う様になったのだろうか。だからって禁煙室を取らなくても良いだろうに。
谷口も年を食ったんだなと、しみじみと月日の流れを感じる。昔ならこんなことあり得なかった。何が何でも性欲を満たそうと、部屋に入った瞬間からチェックアウトの直前までやり続けるような奴だったのに。まぁ、それに付き合っていた私自身も、同じようなものだけど。
もう20代のあの頃とは違う。立場も環境も、体力も全て、歳を重ねる毎に衰える一方なのだろう。それでも、この年になったって、人肌は恋しいし人から愛されたいと思っているらしい。やっぱり一人は寂しい。だから、こうして谷口の誘いに乗って来てしまったのだ。こんな奴だって、見せかけだとしても、そういう物を与えてくれる存在で、それを突っぱねる程私は強くもない。本当に愛する者と生涯を共に出来るなら、こんなに虚しい気持ちで温もりを求めなくても良いのだろうに、私はそういうモノには縁がないらしかった。
小さな溜め息をそっと吐いて、グラスを口に運ぶ。温くなったシャンパンの甘さが口の中に纏わりついて、不快だった。
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