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第59話
夜明け前に目が覚めた。隣を見れば谷口が静かな寝息を立てて眠っている。手を伸ばし頬に触れると、ほんの少しだけ愛しく感じられた。掛け布団が、二人分の体温を包み込んで温かい。ただそれだけの事がとても嬉しかった。
しかし、不意に胸が締め付けられるように苦しくなって涙が出た。この愛おしさも温もりも、仮初めの物だと気付いてしまったのだ。私はもう、こんな小さな幸せも、本物を手にする事は無いだろう。結局、谷口には帰る家があって、大切な家族が待っている。谷口は私のものではないし、私にはそんな家族もいない。ただガランとした空虚だけが待つ家に、一人で帰らなくてはいけないのだ。
よく眠っている谷口を起こさないように、そっとベッドから出ると、バスルームに入って昨夜と同じように鏡の前に立つ。体のあちこちに散る花びらのような赤い跡が、先程までの行為の証であることは確かだった。でも、それは、何を保証するものでも無く、ひたすらに快楽を追った愚かな私への烙印だ。
全てを洗い流したくてシャワーの温度を上げ、熱めの湯を頭から浴びると、徐々に頭が覚醒して先程までのセンチメンタルな思考も一緒に流れて行く様だった。そうだ、所詮はセフレだ、十分楽しんだ、それでいいじゃないか。そう自分に言い聞かせるとバスルームから出る。そして、身支度を整えて、谷口には何も言わずにホテルを後にした。
始発電車で家に帰り、冷え切った布団に潜り込んだ。暖房もしていない室内は、空気も、敷きっ放しの布団も凍える程冷たくて中々寝付けなかった。すっかり冴えてしまった頭で昨日一日を振り返る。思いがけない一日だった。松井に渉と別れたことを知られた事、もう二度と会うこともないと思っていた男と再会して一夜を共にした事、自分の弱さを自覚した事、谷口への複雑な感情、渉への未練、それらがとりとめもなく、頭の中に浮かんでは消えていった。ウトウトしては考え、考えてはウトウトして、結局、眠ることが出来きないまま朝を迎えた。
昨日まで、完全に吹っ切れたと思っていた。渉の事を考えることもなくなっていたし、会社とこの部屋を行き来する事も辛くはなくなっていた。それなのに、谷口に与えられた『温かさ』の所為で、こんな気持ちになった事が、腹立たしくもあり、情けなくもあった。あの程度の事で心が揺らぐなんて、と自分の弱さに嫌気が差す。このまま忘れていられたら、どんなにか楽だっただろうに。
そんな事を考えていたら、何時まで横になっていても眠れそうになくて、いつもと同じ時間に布団を這い出した。
重たい体を引きずってキッチンに行き、換気扇を回し煙草に火を点け一服する。流石に今朝は何か食べなくては体が持たないだろうと冷蔵庫を開けた。しかし、少し前に賞味期限の切れた物や傷んだものを捨ててしまったから、調味料と、ミネラルウォーターしかなかった。買ってもいないのに、何故か冷蔵庫に食べ物があると思い込んでいるのは、今までずっと、渉が何かしら常備してくれていたからだ。
そんな事も全部、もう嫌だと思った。未練たらしい惨めな自分も、弱い自分も、愛する人に愛されない現実も、誰でもいいから愛してほしいと乞う心も、全て捨ててしまいたかった。早くここから抜け出したい。渉の幻影が残るこの部屋を早く出て行きたい。早く引越し先を決めなくては……強い焦燥感に追い立てられるように、身支度を整えて家を出た。
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