63 / 71
第63話
意外な所から浩介の名前が出てきて、改めて考える。衝動的な俺の行動は、きっと浩介を傷つけた。あの頃の俺は、自分の現状と向き合う事に必死で、浩介の為だと言って、彼と向き合わないまま逃げ出してしまった。
そう言えば、新しい居酒屋が出来た頃に家を出たんだった、と当時を思い出す。行っても無いのによく覚えているのは、仕事からの帰りに商店街を歩いていた時に、オープンの宣伝チラシを貰って、俺が一緒に行こうと誘ったからだ。その時はもう既に、自分の病気の事も薄々分かっていて、浩介に話すかどうか迷っていた時期でもあった。そうやって楽しい事を考えていれば気が紛れたし、未来の事を話していると、一瞬でも不安が和らいだ。あの時の俺は、すっかり思い詰めて、全部自分で背負わなくちゃいけないと思いこんでいたんだ。
やっぱり、ちゃんと伝えるべきだった。浩介に背負わせたくないとか、浩介に心配をかけたくないとか、そんな事は自分勝手な思い込みで俺のエゴだ。背負うか背負わないか、心配するかしないかは浩介が決める事だったんだ。でも、もう遅いんだろうな。時間を取り戻すことは出来ない。
一緒に行けたら良かったのに……。あの小さな約束を、浩介はまだ覚えているだろうか。
ベッドに仰向けに寝たまま、外に目をやると、窓に切り取られた空が、灰色のグラデーションを描いていて、今の自分の心の中のようだと思った。この空が晴れる時、きっと俺の心は置いてけぼりを食らうんだ。
ベストの選択をするって難しい。その時その時に、これが一番だと思うことをしているつもりなのに、振り返れば間違った選択ばかりしている気がする。あの時こうしていたらなんて後悔しても、やり直せるわけじゃ無いんだけど。
やっぱりダメだな。一人で考えてると、思考がどんどん飛躍して、考えなくていいことまで考えてしまう。先ずはメールの返信か。
とそんな考えに至った時だった。不意に部屋の入口にから声をかけられ、慌てて声の方を振り向いた。
「考え事ですか?」
いつの間に入って来たのか、チェスターコートを着て、マフラーに顔を埋めた紀が部屋の入口に立っていた。手には重そうに買い物袋を手に提げている。
外が余程寒かったらしく、頬が赤くなって肌の白さが際立っていた。そう言えば、朝の天気予報で今季一番の冷え込みと言っていたのだと思い出す。
紀が纏っている、ひんやりとした空気が、こちらにも漂って来て、エアコンで温んだ空気を、少し浄化してくれる様だった。
来ると言っていたのだから、来て当然なのに、自分の世界に入り込み過ぎて、声を掛けられた事に動揺してしまった俺に、紀が戸惑っている。
「そんなにびっくりしないで下さい。ノックはしたんですよ。」
拗ねたように言う。
俺は、ベッドに肘をついて少し体を起こして、紀に話しかける。
「紀くん、いつ来たの?いつから見てた?気が付かなかったよ。」
と言うと、
「今来たところです。寝てるかもしれないとと思ったんで呼び鈴は鳴らしませんでしたけど……さっきも言ったけど、ノックはしましたよ。」
律儀な報告の仕方が紀らしいし、覗き見した様に言われたのが、心外だったのだろう。やっぱり拗ねている様で、その後は無言で、買ってきたものを仕舞い始めた。
ともだちにシェアしよう!