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第69話

 カットを終えたナオキが、髪を洗いましょうかと促した。その頃には私も落ち着きを取り戻していたが、泣き腫らした瞼は重たかった。大の男が人前でこんなに泣くなんて、しかも親子ほども年の離れた男の子に弱みを見せた事が恥ずかしくて私は顔も上げられないのに、ナオキは何もなかった様に前を歩いて行く。その後ろ姿を見ていたら、少し気持ちが落ち着いてきた。  つくづく不思議な奴だ。子供っぽいと言うか、自己中心的な部分がある一方で、こんな風に包容力のある大人な一面もある。もっと前に知り合っていたら、否、渉と無関係に知り合っていたら、知人として良い付き合いが出来たかも知れない。でも、それは仕方の無い事だった。ナオキが渉の知り合いでなければ、私はナオキの勧誘をにべもなく断っていただろう。  そう考えると、偶然の出会いではあるけど必然的な出会いだったのかも知れない。ナオキの後ろをついて歩きながら、そんな事を考えていた。  半個室のゆったりした空間は、今日も柑橘系の爽やかなアロマオイルの香りが漂っている。普段、香りの強い物は苦手で、香水も整髪料も付けないが、今日は仄かに香る匂いに癒されている自分自身に気が付いて少し驚いた。  ナオキに促されて、怖ず怖ずと椅子に座りながら、心の中で 『歯医者と同じだろ。この椅子に座るのもこれで二度目だし、仰向けで洗う事も知っているじゃないか』 と自分を勇気付ける。そして、平静を装って、ゆっくり倒れる背もたれに身体を預けた。  それを見て、 「今日はびっくりしないんですね。」 とナオキがクスクス笑う。心中を見透かれた様で気不味い。見栄を張って、バカにするなよと言いたかったが、前回の失態と、先程泣き顔を見られた恥ずかしさで反論も出来なかった。でも、ナオキを見ると楽しそうに笑っているので、私もつられて笑ってしまった。  台に頭を乗せ目を瞑る。もう、先程までの緊張は無くなっていた。顔に柔らかな布が掛けられると仄かな明るさだけが感じられた。  静かなBGMとナオキがお湯の温度を確かめる、シャワーのサラサラとした流水音が心地良い。ナオキが何か準備をしているのだろう。戸棚の戸が開いて閉まる音や、コトコトと容器が触れ合う音が聞こえてきた。そんな音に耳を傾けていると、ふっと夢の中に居る様な感覚になった。  ナオキがシャワーの湯を頭に優しく掛ける。少し熱めの湯の心地よい温かさが全身に伝わって、全身に入っていた力が抜けて楽になったのが分かった。熱くないですかと聞く声が遠い。前回はこんな事を感じる余裕はなかったが、渉が気に入っていたというだけあって、気持ちが良かった。  今私は、いつかの渉と同じ時間を過ごしているのだと思った。渉がここに横になって、ナオキに身を委ねている姿が目に浮かんで、この時間がとても愛おしく感じられる。  ふわふわとした浮遊感の中で、夢と現実の間を行き来しながら、私は渉の事を思い出していた。渉の顔。目つきが悪いあの顔に、ふわりと浮かんだ笑顔が可愛くて、大好きだった。強面なのに見掛け倒しで、人に強く言えない優しい性格も、着る物や持ち物にこだわりと愛着を持って大切にしているところも好きだった。何年経っても私の前ではいい顔をしたがる所や、本当は寂しがりやなのに寂しくないと強がるところも、可愛くて好きだった。……でも、少しだけ嫌だった。寂しいと言って欲しかったし、駄目なところもあって良かったのだから。  それを全部引っ括めて、私は今でも渉が好きだ。それは、これからも変わることはないだろう。渉の隣に居られなくても、私に新しい恋人が出来たとしても、渉を好きな気持ちは消えることはない。  こういう気持ちになれたのは、やっと渉の事を一歩引いて考えられるようになった、と言う事なのだろうか。  それならば、今渉に会えたら、幸せになれよと言ってやれるかも知れない。そう出来たら、私も楽になれるだろう。出来ることならもう一度会いたかった。でもそれは叶わないだろう。  ナオキに終わりましたよ、と言われて眠っていた事に気が付いた。夢から覚めて見えた景色は、先程と変わらない半個室の一室だったが、何処か清々しかった。

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