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ch.3

1Fのロビー。会計窓口の前のベンチに掛けて、先生を待っていた。 先生を待つ間、封筒の中身を読む気にはなれなかった。僕にとって、「男として機能していて、女の機能はない」という事実がわかっただけで十分だった。そして、無意味にあるだけのプッシーについて考えた。それが“ある”理由を求めて来たわけじゃなかったけど、ここに来て現実を知ってみても、少しも受け入れる気になれなかったことだけはハッキリしていた。 18時になり、会計窓口がクローズすると、ロビーには人がほとんどいなくなった。このフロアの奥の方、売店や薬局のあたりの照明が消されて薄暗くなり、少しだけ心細くなってスマホを覗いた。体のことを誰かに言うつもりはなかったから、ただ、無意味に流れていくインスタやツイッターやTikTokを眺めていた。 18時10分を過ぎた頃。かつかつと響く靴音に顔を向けると、僕に「やあ」と軽く手を上げる先生が見えた。 「待たせてすまなかったね」と早足でこちらに来る彼は、白衣の代わりにジャケットをバッグを持つ左腕にかけている。診察時、台襟のボタンはしてなかったけど、今はシャツの第一ボタンまで外していて、それだけで随分カジュアルな印象が強まった気がした。 「全然、平気です」 腰を上げると、僕の側に来た先生は、少し見上げるほど上背があることがわかった。 そして彼は、唐突に「診察券、貸して」と言った。 「…?」 言われるまま券を差し出すと、彼はそれを取り、会計窓口の並びにある精算機に向かった。ここの会計は、窓口だけじゃなく精算機でいつでもできるシステムで、先生の意図がわかった僕は、驚いた。 「先生…?」 慌てて駆け寄ると、彼はもう僕の診察券と彼のクレジットカードを機械に入れ、暗証番号を入力していた。 「先生、僕、払えますからーーー」 「いいから」 機械が吐き出した診察券とレシートをくれた先生は、「君の家まで送ってくよ」と笑った。 「そんなことまで、困ります」と言った時にはもう、彼はエントランスとは逆の方へ歩き出していて、僕は慌ててその背中を小走りで追った。 なんだか悪いことをしている気がして、ロビーの裏手にある職員用通用口から駐車場まで、俯いて先生について歩いた。通用口の警備員に「その子は?」と聞かれた先生は、「知り合いの息子さん、送ってくんだ」と答え、「それじゃあお疲れ様」と挨拶をするとそれで済んで、僕が咎められるようなことはなかった。 先生の車は、メルセデスのハイクラスのSUVだった。医者らしくセダンじゃないのが若い人っぽいなんて考えていると、彼が助手席を開け、「乗って」と小さく微笑んだ。 運転席に乗り込んだ先生は、エンジンをかけると「家はどこですか?」と聞いた。 「…イズリントンの、アルメイダ劇場の近くです」 「そうか、じゃあそっちに向かうよ」 スマホのナビアプリを開いていた先生は、土地勘があるのか設定はせず、アプリを閉じてスマホをダッシュボードのホルダーに置いて、車を出した。 季節は6月の中旬、薄藍に暮れた空が街を夜に染め始めていた。 しばらく僕は、控えめな音量のラジオを聞きながら、窓を流れるネオンを眺めていた。そして5分もすれば街並みに馴染みが薄くなって、車が知らないストリートを走り始めると、次第に居心地の悪さを覚えた。 盗み見た先生は、右手をステアリングにかけ、左腕をアームレストに置いている。リラックスしたように見える横顔は、まるで僕がいることなんか気にしていないように見えた。 「あの、先生…」 ちょうど右折に差し掛かり、ハンドルを切った彼は僕を見ずに「ん?」と答えた。 「…どうして、わざわざ…?」 「君が泣いてたから、ほっとけなかった…今でも心ここにあらず、だろう?」 「だからってお金まで、困りますーーー」 「それは気にしなくていい」 「でもーーー」 「シールズさん、僕は、君に謝りたい」 一瞬、僕に向けたその顔は、なんだか苦しそうに見えた。 「…え?」 「…僕は普段、仕事柄、患者を必要以上に気遣ったり、優しく接しないようにしてる…けれど、本当はさっき、君を慰めたり、もっと労ったり、優しい言葉をかけなきゃいけなかった…」 「…」 「君はまだ子供だけど、とはいえほぼ大人と言えるし、難しい年頃だと思う…つまり、子供扱いをするわけにも成人として扱うわけにもどうにも難しくて…あの場で適切に気遣えなかったと思ってる、申し訳ない」 「…」 「だから今、言うよ…病院に行こうと決めてちゃんと来た君は偉い、とても立派だ…それに、今日はよく頑張った…辛かったと思うし、まだ不安や苦しいこともあるだろうけど、今だけでも安心しててほしい」 話している間、先生はずっと前を見つめていた。その表情や声は、診察室で僕を気遣っていた時みたいに優しくて柔らかかったけど、もどかしいような悩ましさが滲んでいた。 そして僕は、彼の気遣いが嬉しい反面、ここまでしてもらうことでもないとも思った。 「ありがとう、ございますーーー」 「当然のことだから、感謝なんていらない」 「…そうやって、ちゃんと伝えてくれて嬉しいです…」 僕の言葉に、先生の横顔の陰りが少しだけ晴れた気がした。 「でもやっぱり、お金は困りますーーー」 「お金は、そういう理由じゃない」 きっぱりとした声に、僕は、黙った。 そして先生は、路肩に車を停めると、にこりとして僕を見た。 「…もう少し話をしたいんだけど、お茶でもどうかな?」 「はい」と答える前に彼は車を降りて、数フィート先の交差点の角にあるスタバに向かって行った。 僕は、先生が話したことをぼんやり頭の中で反芻しながら、すっかり日が暮れた街並みを眺めていた。顔を左に向けるとスクエア(公園)があり、右を向くと道路を挟んで向こうに大きなホテルがある。見覚えがある気がするけど、どこかは具体的に思い出せない。地下鉄のサインは見えず、行き交うバスの行き先を見ても普段使わない路線であることがわかるだけで、ここがどこかいまいち見当がつかなかった。 この先の交差点の道を一様に右へ向かう人々の流れに、その先に駅があるのだろうと思った時、先生が戻った。 「お待たせ」とシートに滑り込んだ彼は、「ブラックのコーヒーとラテ、どっちがいい?」と紙袋を掲げた。中には、トールサイズのカップが2つあった。 遠慮しても仕方ないと思い、ラテをもらった。彼が「シュガーはいる?」と聞くから、首を横に振った。カップに口をつける前に、僕は口を開いた。 「ここ、どこですか?」 「ラッセル・スクエアだよ」 「ああ…」 まさに左手にあるのがラッセル・スクエアで、ロンドン大学の本部や大英博物館のあるアカデミックなエリアにいることがわかった。けれど、僕の家の方向と違い、ここまで来れば少し遠回りになるから、わざわざこのスタバのために寄ったというなら不自然だと思った。 「このあたり、あまり来ない?」 「はい、数えるほどしか…」 「心配しないで、このへんは僕には庭みたいなとこで、よく知ってるから遠回りだけどここに寄っただけ…そのスタバ、よく行くんだ」 そう言って、コーヒーに少し口をつけた先生の目尻が緩んだ。 いつの間にか、彼の言葉尻は少しずつ砕けて、フレンドリーな感じになってきていた。これも彼なりの気の使い方なのかもしれないけど、なんだかこそばゆい気がする。あまり意識せず、自然な受け答えをするのがいいんだろう。 「そうですか」とラテを飲むと、温かくて美味しかった。 「できれば窮屈な車じゃなくて店内でゆっくり話したいけど、おおっぴらに話したいようなことでもないから…このままで、いいかな?」 「はい」 先生は、カップをセンターコンソールのホルダーに置いて、ひとつ息をついた。 「お金のことは、本当に気にしなくていい」 「…」 「…君は、自分で払うつもりだったんだろ?」 昨日、今日のためにお金を少し下ろしていた僕は、黙って頷いた。NHS(国民保険サービス)の病院は、診察は無料でも、検査は有料だと知っていた。 「君はまだ子供だ、本来なら検査費用は親が払わなきゃいけない…だから、僕が立て替えたと思ってくれればいい」 「それは…僕が言ってないだけだからーーー」 「貯金?バイト代?」 さりげなく話題を変えた先生は、カップを取ってコーヒーを大きく飲んだ。その横顔は、満足そうに微笑んでいた。 「…どっちもです、下ろしてきました」 「そうか、遊びでも勉強でも、別のことに使ったらいい」 「いつか、返しますーーー」 「社会に出て、稼ぐようになったらでいいよ」 「…そうしますーーー」 「もう少し、いいかな…」 袖を上げ、腕の時計を覗いた先生は、なんだかソワソワとしていた。僕の門限なんかを気にしているのかもしれないけど、クラブ活動でよく遅くなるし、シックス・フォーム(日本でいう高校の2年間、大学進学過程)に進んでからは、よほど帰りが遅くならなければ両親にとやかく言われることはなかった。 スマホを見ると、19時を過ぎていた。 「平気です、大丈夫」と答えると、彼は少し口早に話し始めた。 「恐らく、君にこれから必要なのはカウンセリングだと思う。今後、君の主治医が誰になるにせよ、カウンセラーを探してくれるようにバーソロミューのカルテに追記しておくよ…然るべき人に頼むことになると思うけど…」 「そう、ですか…少し考えてみます、今はまだ、整理がつかないから…」 検査前、先生が言った「君は僕の患者だ」という言葉をふと思い出していた。そして、主治医は検査をした彼でなければ誰なのだろうと思い、僕が決めるものなのか、病院も医師もこれからいくらでも変えていいものなのか、そういった医療現場のルールがよくわからなかった。 「君がこの先、もし、本格的に体をどうかしたいって希望があるなら…例えば、男らしく、もしくは女性らしく生きていきたいとかなら、ホルモン治療って選択もあると思う…それなら経験と実績のある医師を紹介できるよ、ロンドンにいるから心配しなくていい」 続けざまに切り出された内容に、呆気に取られていた。今の僕は、突きつけられたばかりの事実を受け止めるだけで精一杯で、この先のことを考える余裕なんてこれっぽちもなかった。 「あの、先生っ…」 「うん」 「その、まだ、よくわかりません、そんなこと、今は考えられない…思いつきもしなかった…」 「…そうか、つい先走って…配慮が足りなかった…ごめん」 先生の顔がみるみる曇って、僕は、腫れ物みたいに扱われるのは嫌だと思った。 「そんな、謝らないでください…ゆっくり考える時間がほしいだけだから…」 「わかった」 「先生の気持ちは嬉しいです、本当に…」 「…もしまた、なんでもいい、悩みができたり知りたいことがあったり、困ったことが起きたりして僕に話したくなったら、バーソロミューに来てよ、僕は普段、火曜と木曜の午後にあそこにいるから」 「そうなんですね」 「もし、バーソロミューが嫌だったり、何か都合が悪かったら…」 先生は慌てて後部座席に放っていたジャケットを掴み、内ポケットからカードケースのような物を取り出すと、僕に名刺を差し出した。 「ここに来てくれたらいい」 受け取って見ると、表には“テイラー・クリニック”とあり、裏には先生の肩書、名前、クリニックの住所と電話番号、メールアドレスが記載されていた。 「僕のクリニックだ、この近く、土日と祝日以外はやってる、僕がバーソロミューにいる間は休診だけどーーー」 「自分のクリニック?…若いのに、すごいですね」 思ったことを口にすると、強張っていた先生の顔に笑みが戻った。 「去年開業したばっかだ、それまではバーソロミューの常勤でね…その関係もあって、今でもあそこに少し行ってる」 「忙しそうですね」 先生は「でもないよ」と小さく笑い、コーヒーを一口飲んで、続けた。 「受付に電話をして、君が名乗ってくれたら一般の診療時間外に診察できるようにしておくよ、そうすれば他の患者さん…やっぱり女性ばかりだけど、その人達に紛れて待合室で肩身の狭い思いをしなくて済むから…」 「そこまでしてくれなくても」と言いかけて、今日の待合の息苦しさを思い出せば、願ってもない配慮だと思った。 「…もちろん、やっぱり女性の医師のほうがいいなら、バーソロミューで再診してくれればいい、君が一番いいと思うものを選べばいいんだーーー」 「あの、先生…」 声をかけてみると、まるで何もかも見透かされそうなほどまっすぐ見つめられて、少し気恥ずかしくなる。家族でもない赤の他人に、こんなにも真摯に向き合われたことは、これまでなかった。 「どうやって…主治医って決まるんですか?」 僕の質問が何か変だったのか、先生はぽかんとした。大きく見開いた目は、急に見た目より幼く、愛らしく見えて、医師を装っていなければチャーミングな人なんだろうと思う。 「あぁ…普通なら内科とかのかかりつけ医のことだね…特定の病気や怪我を継続的に診てる医師なら、それが主治医になる」 「…先生は、僕の話を聞いて、検査もした…僕はこれからも、先生が診てくれると嬉しいです…」 僕は、なぜかドキドキして、カップを持つ指が汗ばんでいた。 「任せてくれるなら、できる限りのことをするよ」 ごく真面目な医師の顔になった先生は、小さく頷いた。そして「そろそろ帰ろう」と前を向いて、車を出した。

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