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ch.4
僕の家へ向かう間、先生と僕は、ぽつぽつ雑談をした。といっても、大方、先生の質問に僕が答える形で、僕は、家族構成(両親と3つ年下の妹がいる)や、両親の職業や、シティ・オブ・ロンドン大学を志望していることや、フットボールはエレメンタリー・スクール(小学校)の頃から続けていることや、付き合っている彼女がいることや、エンジェル駅の近くのカフェでバイトをしていることなんかを話した。
先生は「君は、ずっとイズリントンとシティのあたりで生きてきたんだね」と微笑むと、彼の生い立ちをざっと話してくれた。ロンドンから南に35kmほど離れたサリー州のレッド・ヒルという田舎町の生まれで、「ロンドン大のクイーン・メアリー校(※医学部を擁する)への入学を機に“都会人”になった」と笑った。そして、ラッセル・スクエアの近くに開業したのはたまたま良物件があったからで、ロンドン大の本部はほとんど馴染みがなかったが、このところはすっかりブルームズベリー周辺がロンドンの地元感覚になったと話してくれた。
「君は大学に志望大学に行っても、行動範囲が変わらないな」
穏やかな横顔の先生は、このドライブを始めた時もそうだったように、リラックスして見える。彼がそうしていると僕も肩の力を抜くことができて、できたらいつも自然な感じでいてくれたらいいのにと思う。
「近いから、いいかなって…」
「何を専攻したいの?」
「一応、ジャーナリズムを」
「メディアが好き?」
「なんとなく…」
「Aレベル※までちょうど1年くらいか」(※志望大学の進学可否をする統一試験)
「はい」
「受かりそう?」
「頑張らないと」
「…体のことで何か支障があるかもしれないけど、頑張って勉強してほしい」
先生の声が固くなって、僕は視線をそらしてカップに口をつけた。
「体のことっていうより、精神的な部分でーーー」
見なくても、彼が複雑に顔を曇らせているのがわかった。
「…先生の言いたいこと、わかります」
「うん」
「…先生」
「?」
「先生と僕は今日会ったばっかだし、そんなに気を使いすぎないでください…先生はカウンセラーじゃないし…さっき自分でも言ってた」
「…ちゃんと、ケアしたいと思ってる」
「先生は、お医者さんとして、ちゃんと対応してくれたと思ってます…本当に」
「…」
「これからも、僕の主治医として診てくれればいいです」
「…うん」
「それと僕は…変に気を使われすぎるより、先生が自然にしててくれたほうがいいです…僕の話とか、大学の話をしてた時みたいに…」
「わかった」と呟いた先生は、ニコリと笑顔を見せてくれた。
そして僕は、とっくに冷めていたラテの残りを飲み干して、聞かずにいられなかったことを聞いた。
「…先生は、誰にもこんなに親身になれるんですか?」
「…って思われちゃっても、仕方ないか」
先生は苦笑すると、ハァとため息をついた。
例え苦笑いでも、難しい顔をされるより笑っててくれるほうがいいと思った。
「さっきも言ったけど、患者を必要以上に気遣ったり、優しく接しないようにしてる、普段はね」
「…」
「でもケース・バイ・ケースは必要だと思ってる、だから、君はーーー」
「イレギュラー?」
「特別、って言っとく」
「そうですか」
「鬱陶しい?」
「…安心して、主治医を任せられます」
先生は僕に聞こえないくらい小さく笑って、ハンドルを左に切った。
外を見ると、地元のメイン・ストリートに入った所で、エンジェル駅のサインが見えていた。そこから僕が道案内をし、5分ほどで僕の家の前に着いた。
車を停めた先生は、僕に体を向けると静かに口を開いた。
「…シールズさん、もし言いづらいなら、僕からご両親に話してもいい」
「…今?」
「今でも、いつでも…」
「…まだ、心の準備ができてないんです…頭も正直、フリーズしてる」
「うん」
「お願いしたいと思ったら、お願いしに行きます…それでも、いいですか?」
「それでいいよ」
先生は、今日一番穏やかに微笑んでいるように見えて、僕は、彼でよかったと思った。
「先生、その、シールズさん、って 呼ぶのはやめてほしいですーーー」
「…シールズ君?」
「それで、いいです」
「わかった」
「…それじゃ、失礼します」
車を降りて、ドアを閉める前に中を覗いた。
「ラテ、ありがとうございました…ラテだけじゃなくて、いろいろ、たくさん…」
「おやすみ、シールズ君」
「…おやすみなさい、先生」
ドアを閉めても、先生はすぐに車を出さなかった。
玄関のステップを上がって振り返ると、車が静かに発進した。そのまま、車が1つ目の角を右折して見えなくなるまで見送って、家に入った。
その夜、僕は、夕食中もその後も、両親や妹のローラと過ごしている間は何事もなかったかのように過ごした。いつも通り「宿題をしたら寝る」と自室に行き、先生がくれた茶封筒をデスクの一番下の引き出しの奥に押し込んだ。
ベッドに寝転がって天井を眺めながら、体について、“男は機能し、女は機能していない”という端的な事実を頭の中で繰り返した。何度繰り返しても、何も変わらなかった。
「面倒が増えた」ふと、そう思った僕は、「それを意識しなければいい」という結論に至って、そのまま目を閉じて眠りについた。
* * *
翌日の土曜日は、クラブの試合があったけど、体調不良を理由に休んだ。
翌々日の日曜は、彼女とデートの予定があったけど、気が乗らなくて断った。気晴らしにバイトに行ってもよかったけど、それも結局気が乗らなくてやめた。
月曜日からは、いつものように学校に行き、いつも通り、何事もなかったかのように過ごした。
彼女にも友人達にも、誰にも体のことを打ち明けるつもりがなかったのは、彼らの僕を見る目が変わってしまうことが怖かったからだ。既に僕は“ジョセイキに対する男の下品な欲望”を身を持って知っていたから、それが万が一にも自分に向けられるかもしれないと思うと、とても恐ろしい気がした。だから僕は、“ジョセイキ”を“無い”ものとして見なして、何食わぬ顔で日々を過ごし続けた。
けれど、日が経つにつれ、体の事実から目を背け、忘れることができるようになっていった一方で、テイラー先生のことだけは忘れられなかった。あの日、「気にしなくていい」と言われたお金の件が常に心の隅に引っかかっている。「社会に出たら返せばいい」と言ったのは、僕をあの場で納得させるためのセリフで、本気で回収する気がなさそうなこともなんとなくわかっていて、日に日にじわじわと膨れていく罪悪感が僕を苦しめていた。
そして、あれから3週間が経ったその翌週、僕は、先生のクリニックに電話をかけた。予約は、その週の金曜日、夏休み前の最後の登校日に取れた。
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