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ch.5

予約の金曜日。学校を終え、クラブを欠席してブルームズベリーに向かった。 ラッセル・スクエア駅に17時過ぎに着いて、予約の18時までに少し余裕があったから、ラッセル・スクエアの方へブラブラ歩いた。大通りに出ると道を挟んで向こうに公園があり、交差点の対角には先日のスタバが見えて、この前の所だと少しほっとした。そのスタバで時間を潰した後で、指示をもらっていた通り、18時10分前ぐらいにクリニックに行った。 先生のクリニックは、駅前の道を渡って右に向かい、2本目のストリート沿いにある。そこは、ジョージア様式のテラス・ハウスが並ぶ典型的な都市部の住宅地で、数歩進めば駅前の喧騒が届かなくなる閑静な所だった。そのストリートのほぼ突き当たりの角がクリニックのはずだけど、外観は並びの邸宅と変わらない。大通りやショッピング・ストリートに面したクリニックやサロンなんかの外観をイメージしていた僕は、少し戸惑った。けれど、ドア横のA4ほどのシンプルな表札に「テイラー・クリニック」とあったから、不安を追い払って呼び鈴を押した。 するとすぐ、ドアが中から開けられ、びっくりするほど綺麗な女性が顔を覗かせた。 「あのっ、予約しているシールズです」 「お待ちしておりました、どうぞお入りください」 名乗り終わらないうちに笑顔で招き入れられた僕は、駆け込むようにして中に入った。 内部はクリニックとして改装したのか、これも外観からのイメージとだいぶ違った。受付として使われている玄関部分は広々として、明るい。中央にアンティーク調のカウンターで設えられたレセプションがあり、その右奥に階段がある。壁紙は白っぽい柔らかなピンクベージュで、冷たい感じが全くない。モダンアートらしき絵画がかけられた左右の壁には2つずつドアがあり、その焦げ茶の重たそうな扉の向こうは、どんな用途のどんな部屋なのかは想像もつかなかった。 「こちらへどうぞ」 受付の女性は向かって左奥のドアを開け、僕を招いた。改めて見ると、彼女はアップした黒髪を後頭部できちんとまとめ、メイクやマニキュアも完璧に見えた。薄いブルーのブラウスに紺のシンプルな膝丈のラップスカートの出で立ちには、気品がある。モデルみたいに綺麗な脚と高めのヒールは、医療事務というより秘書のほうがしっくりくる。もしかしたらこの人が先生の彼女なのかもしれないと思いながら部屋に入ると、彼女は「では、お呼びするまでこちらを記入しておいてください」と問診票を挟んだクリップボードをくれると、僕の後ろでドアを閉めた。 通された部屋は、どうやら待合室らしかった。20㎡ほどの小さな個室だけど、アンティーク調に統一された内装はマントルピースの装飾まであり、まるで老舗のティー・サロンみたいに洒落ている。中央に置かれたローテーブルとソファは、近づけば本物のアンティークらしいことがわかった。ソファに掛けても落ち着かず、問診票の記入を終え、スマホを眺めて5分もたった頃、ドアがノックされて先程の女性がシルバーのトレイを持って入ってきた。彼女はきびきびと僕の前にティーセットを並べ、「レモンは要りますか?」と聞いた。「大丈夫です」と答えると、彼女はニコリとしてあっという間にいなくなった。 ポットからカップにお茶を注ぎ、ミルクを入れた。金の装飾が美しいボーンチャイナらしき陶器のセットは見るからに高価そうで、割ったらいけないと恐る恐る口をつけていると、半分も飲まないうちにドアがノックされ、受付の女性に「お待たせいたしました」と呼ばれ、慌てて腰を上げた。 待合室を出て左側、つまり、エントランスから見て奥が診察室のようだった。受付の女性がドアをノックして通された部屋に入ってまた、僕は驚いてしまった。 ここは、レセプションや待合室とは趣が全く違った。インテリアも内装もまるで高級ホテルのモダンスイートのようで、白っぽいクリームの壁紙は温かくて落ち着ける。天井の2/3はガラス張りで自然光がよく入り、部屋の中央にある革張りのソファとガラステーブルを明るく照らし出している。部屋の奥には、書斎を思わせる重厚なデスクがあって、テイラー先生はそこに座っていた。 「やあ、シールズ君、いらっしゃい」 顔を上げ、僕を見た先生はニッコリ笑った。 「先生、こんにちは、よろしくお願いします」 「どうぞ、そこに掛けて」と促されるままソファに掛けると、受付の女性が現れた。テーブルに先程の僕のお茶のセットと新たに先生の分を並べた彼女は、また、風のように退室した。 先生は、ここでは白衣は着ないようだった。髪の長さは記憶とあまり変わらないけど、ワックスで掻き上げた髪を散らし、ばらばらと額に落ちる前髪は以前よりだいぶラフに見える。前回のようにノータイで、薄ピンクのストライプのホワイトカラーシャツと濃紺のスラックスの出で立ちは、前回に比べて随分カジュアルな気がした。 先生は僕の対面に腰を掛けると、「お茶のおかわりが欲しかったら言ってね」と自分のマグにお茶を淹れた。 「…ティーカップじゃ、ないんですね」 「カップじゃ量が少ないし」と眉をひそめた先生は、「僕のクリニック、どう?」と僕に尋ねた。なんだか楽しそうに僕を見つめている彼は、僕の戸惑いなんてお見通しらしかった。 「すごく綺麗ですね」 「去年開院したばっかだから、ピカピカだ」 「…正直、驚きっぱなしです」 「気に入らない?」 「そ、そうじゃなくて、なんていうか…すごくエレガント…で、気後れしてます…」 正直に答えると、先生は満足げに笑ってお茶を飲んだ。 「待合室がお高いティー・サロンみたいでした」 「4つあるよ、全部個室だ」 クスクスしている彼は、圧倒されてる僕を楽しそうに見つめている。 「2階は何があるんですか?」 「僕の仮眠室やスタッフの部屋、あと、患者さんのための休憩室がある、具合が悪くなったりした時のためのね」 「ここが診察室?」 「そう」 「なんだか、すごくおしゃれな書斎みたい…明るくて気持ちよくて、好きです…開業医の婦人科って、どこもこういう感じなんですか…?」 「まさか、たぶん君の思う歯科とか…整形外科みたいな?ああいう感じが一般的だよ」 「そういうの、イメージしてました」 「患者さんにはナイーヴな人もいれば、無機質で病院的な所を嫌う人もいる、それと、こういう機密性が高い所や、君の言うエレガントな空間を好む人達も…」 「…お金持ちの、マダムだ」 なるほどと思ったことをつい口に出してしまうと、先生は僅かに目を細めた。その表情はとても大人に見えて、僕は、なんだかドキドキした。 「君が思ってるようなことは、断じて“ない”よ」 「…」 なんだか意味ありげに微笑む先生に、なんて答えればいいのかわからず困っていると、彼はマグを置いて「じゃあ」とこちらに体を乗り出した。 「それで、今日はどうしたの?体に何か変化があった?」 「体は、特に変化はありません、何も変わらないです」 「そうか、なら今日は検査はしなくていい」 「ここでも検査できるんですか?」 「もちろん、そこが検査室」 先生が長い腕で示した右の壁に、その奥にあの診察台があるとは思えない明るい焦げ茶のドアがあった。 「検査はどれくらいの間隔がいいんですか?」 「そうだな、体が成熟するまでは半年に一度は診ておきたい、何か変化があったらすぐにでも」 半年に一度と聞いて、内心ほっとしていた。少なくとも、あと半年はあの辛さを味わわなくて済む。あれを思い出すと今でも胸の底が冷えて、できることなら忘れられたらどんなにいいだろうと思う。 「わかりました…それで、今日は…」 「うん」 「先生から…両親に体のことを伝えてもらえたらと、お願いしに来たんです」 ほんの一瞬、目を丸くした先生は、すぐに「わかった」と頷いて、承知してくれた。 本当は、心の準備ができたわけじゃなかったし、別に言わなくてもいいくらいに思っていた。だけど言わないと、僕が成人年齢の18歳になるまでか、下手したら社会人になるまでずっと先生が“立て替え”続けてしまうだろうと思うと、心苦しかった。 「ありがとうございます」 「…なんかあった…?」 探るような視線から目をそらして、紅茶を飲んだ。 「いえ、やっぱり…親には早めに言っておいたほうがいいなって思って…」 「…そうだね、長い目で見れば、ご両親の理解があるに越したことはない、僕が君の家に行く形にしよう」 「…ありがとうございます」 「じゃあ早速、日取りを決めたいけど、僕から電話をしたほうがいいかな?」 「…そうだと、助かります」 先生はスマホを取り出し、「わかった、じゃあ近いうちにするよ」と何かを操作し終えると、「今日も家まで送ってこう」と腰を上げた。 慌てて「一人で帰れます」と断ろうとすると、彼は「エントランスで待ってて」と笑い、片付けを始めたから、結局今回も甘えることになった。 エントランスに行くと、レセプションには例の女性の姿も、他の患者の姿もなかった。がらんとしたホールのソファに座り、ぼんやりとこのクリニックについて考えた。待合室が全て個室なのは、受付や出入りや最後の会計の際に限りなく他の患者と顔を合わせないように配慮しているのだろう。であれば、僕からしたらこれ以上なく理想的だけど、ふと、女性にとってもそれくらいセンシティブなことで、先生に助けられている人はたくさんいるのだろうと思った。 10分もすると、診察室から出てきた先生が「帰ろう」と左手の車のキーを掲げて見せた。前回のようにジャケットを腕にかけ、レザーのバッグを持っている。スラックスと対ではないジャケットは明るい砂色で、クリニックにいる時はかなりカジュアルな装いなことがわかった。 「えっ、お会計はーーー」 「いいから、ほら出て」 私立の病院やここみたいな開業医は、当然診察代が発生する。まさかとは思っていたけど、やっぱりこうなってしまうのか。先生に背中を押されて、苦い気持ちでクリニックを出た。 エントランスの戸締まりをした先生は、「じゃあ行こ」と目の前に停めている車をスルーして公園の方向へ歩き始めた。クローズされたクリニックには、当然誰もいない。先生が「一般の診療時間外に診察できるようにする」と言った通り、僕の予約は通常の診察終了時間の18時からで、もう退勤したらしい受付の女性は、お茶を出したら帰っていいと言われていたんだろうと推測できた。 そして僕は、当たり前みたいに例のスタバに連れて行かれた。レジ列に並びながら「困ります」と言うと、「子供は遠慮しなくていい」と笑われた。子供って言うほど子供じゃないんだけどと不貞腐れたいけど、先生の前ではできない。 そして、彼はアイスコーヒー、僕はオレンジのフラッペ、そしてフードをいくつかテイクアウトして、先生の車へと向かった。

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