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ch.6

7月の中旬。19時になろうとしている空は、日が暮れるまで余裕がある。まだまだ明るい街の帰宅ラッシュの中を、車はのんびりと僕の地元へと向かっていた。 「今日もよく晴れて、ピクニック日和だった」 先生が、独り言みたいに呟いた。左手をステアリングに起き、窓枠に右肘を置いて頬杖をつく彼は、とてもリラックスして見える。 「…先生は、運転が好きなんですか?」 「うん、ドライブが好き…どうして?」 「この前、ナビ見なくても僕の地元の方まで送ってくれたから、道知ってるんだなって…」 「大学時代、よく友達と車で遊び回ってたんだ、中古のボロ車を仲間内でシェアしててさ」 「そうなんだ」 「腹減ってたら、好きなの食べて」 先生は、こちらに向けた目線をセンターコンソールに流した。ドリンクホルダーの所に置かれた紙袋の中を覗くと、チョコレートクリームのドーナツ、アボカドのサラダラップとワッフルが入っていた。 「ワッフル、いただきます」 「うん」 前回は気づく余裕がなかったけど、車の中はとても綺麗で小さなゴミ一つ落ちていない。車もすごく好きなのかもしれないと思うと、ワッフルの欠片を落とさないように気をつけて齧った。 「…先生は、ピクニックよくするんですか?」 「あんまり、たまの週末にハイド・パークとかリージェンツ・パークに行くくらい」 「そういえば、先生はクリニックの辺りに住んでるんですか?」 「違うよ、ランベスの辺り」 「そうですか、ちょっと遠いんですね」 滅多に行く機会がないけど、ざっくりどの辺かは知っていた。そこはブルームズベリーでもバーソロミュー病院の近くでもなく、さらにはピクニックをする公園からもだいぶ離れた反対側のエリアで、少し意外だった。 僕を見た先生は、「意外?」と笑みを深めた。 「ちょっとだけ……先生って…」 「?」 「僕のこと、お見通しみたいだーーー」 「君がわかりやすいだけ、顔に出てる」 先生はフフッと笑い、ラジオから流れるエド・シーランに合わせて小さく鼻歌を歌い始めた。 車で送ってもらっている間、会話が途切れてふと生まれてしまう沈黙はなんだか居心地が悪くて、何か喋らなきゃと思ってしまう僕は、彼の鼻歌が間を埋めてくれてほっとした。そして、僕の地元に着くまで、窓の外を流れていく街を眺めながら、たまに外れるピッチを誤魔化す楽しいハミングを聞いていた。 僕の家の前に着き、お礼を言って車を降りた時、車のエンジンが止まった。振り返ると、車を降りた先生が後部座席からジャケットを取り出していた。 「先生??」 「やっぱり、直接話すよ」 「!?」 「ご両親に話す日程決め…電話よりも、直接会ったほうがコトの重要性が伝わりやすい」 先生はジャケットを羽織りながら、早足で僕の家のエントランスに向かっていく。 「ちょっ…急すぎるよ、先生…!」 「善は急げだ」とこちらを軽く振り返った彼は、「行こ」みたいに眉を上げて、強引な人だと慌てて追いついた時にはブザーのボタンを押していた。 突然の成り行きに驚いてしまった僕は、自分の家にも関わらず、彼の後ろで家の誰かが出てくるのを待っていた。 ほどなくドアが開き、母さんが顔を出した。母さんは先生を見ると「どちら様でしょうか?」と不思議な顔をして、彼の後ろにいる僕に気づくと、何事かとでも言うように眉をひそめた。 「ウィル?…うちの子が何か?」 「ママ、心配しないで…」 慌てて先生に並び、説明しようとすると、先生が懐から取り出した名刺を母さんに差し出した。 「突然お訪ねして申し訳ありません、私はテイラーという医師です」 「…お医者様が、何か?」 「先月、ウィル君を診察しまして、それ以来、主治医として診させてもらっています」 「…診察?…主治医、ですか?」 もちろん、病院に行ったことも言っていないから、寝耳に水の母さんは訳がわからないという顔をしている。 「実は、ウィル君の体の件で、私の方から詳細をお伝えさせていただきたく、一度、ご両親にお時間をいただけないかと思いまして…」 先生の口ぶりは驚くほど淀みなく、物腰は恐ろしく人当たりがよく、そして、僕と初めて会った日より数倍丁寧で堅苦しかった。“仕事”柄、こういうのはお手の物なのかと感服する一方で、その身なりのせいもあって医師というよりなんだかセールスマンみたいに見えて、僕は少しだけ面白くなってしまった。 母さんの手には、2枚、セント・バーソロミュー病院の物と、僕ももらったクリニックの名刺がある。そして、それらをちゃんと見た母さんの顔が、一気に困惑した。 「…ウィルの体?…婦人科の先生が…ですか??」 「どうか、できれば冷静に聞いていただきたいのですが…ウィル君の体には、女性器があります」 「え!?」 少し声を落とした先生の言葉に、母さんは驚愕した。 初めて股の間にそれを発見した僕だって同じだった、冷静でいられるはずがない。 「まさか、そんなーーー」 「お母様、突然のことで動揺されるのはわかります…それだけ大事なことだからこそ、後日、お父様も一緒に、ゆっくり報告と説明をさせていただく時間をいただけると嬉しいのですが…」 「先月って…ウィル、どうしてそんな、黙ってたのーーー」 「お母様、そういったことも含めて、ちゃんとお話しさせていただきたいのです」 強張った顔で僕を見る母さんから庇うように、先生はさりげなく母さんの視界に割って入った。 「日時だけ決めていただければまた伺います、どうか、落ち着いてください」 「え、ええ、わかりました……少々、お待ちいただけますか…」 真剣な先生に気圧されたのか、あたふたと奥に引っ込んでいく母さんを見ながら、僕は、母さんが卒倒しなくてよかったとため息をついた。 先生も小さく息をついたけど、なんだか満足そうな横顔は、うまくいった、とでも言ってるようだった。 「…君のお母さん、理解が早いと思うよ」 「だと、いいな…」 「きっと大丈夫」 「…ウィル君?」 「ウィル君、だろ?」 僕を見下ろした先生は、にっこり笑った。 その後、母さんはまだ帰宅していなかった父さんに早速連絡を取ったらしく、先生の訪問は翌々日の日曜、15時に決まった。 「お母様、どうか、できれば、日曜に私からちゃんとお伝えしえてご理解いただけるまで、ウィル君にそのことについて触れないであげてほしいんです」 「…どういうことでしょう?」 「ウィル君も非常にショックを受けていましたし…センシティブなことですから、彼のためと思って、日曜まではできる限りそっとしておいていただけませんか?」 「…そうですか、わかりました」 「そう言っていただけて安心しました…では、日曜にお邪魔します、今日はここで、失礼します」 丁寧に礼をした先生は、最後にものすごくハンサムな笑顔を作ってみせた。 閉まるドアの向こうに母さんを残して、僕は、車に向かう先生の背中を追った。 スマホを見ると20時を過ぎていて、辺りは夜の入り口の薄闇に包まれ始めていた。 「先生!」 「何?」 「あの…なんていうか…」 車まで来ると、先生は助手席のドアを開け、中からフードの紙袋を取り出した。 「腹減ってない?ドーナツ食べる?」 「夕食あるから」と断ると、先生は「ラップ、もらうよ」と取り出し、ドーナツの残った紙袋を「おやつにでもして」と僕にくれた。 「先生…いろいろ、ありがとうございます」 「ん?」 助手席のドアに寄りかかった先生は、その場でラップを食べ始めた。 「僕のこと、母さんに牽制してくれてたーーー」 「少し、正確じゃなかったかも…」 「?」 「“ショックを受けていました”じゃなくて、“受けています”のほうがよかった」 「…」 「まだ、体のこと、受け入れられてない…だろ」 「…はいーーー」 「いいんだ、何もおかしくないし、何も責めてない」 先生はさらりと言うと、ラップをぱくつき、もぐもぐと頬張った。 「…なんか、先生、すごかった、別人みたいだった」 「普段はあんな感じだよ」 「役者みたい」 「マダムの警戒を解くのも仕事のうちなんだ」 ニヤリと意味深に笑った僕の主治医は、やっぱり僕には想像もつかないほど大人なんだと思う。 「…先生、モテそうーーー」 「仕事とプライヴェートは別」 彼は小さく肩をすくめると、食べ終えたラップの包みをくしゃくしゃと大きな手の中で潰した。そして、「じゃあ、日曜、来るから」とパッとウインクをして、車の運転席側へと回り込んだ。 「…あ、せんせっ、今日のお金ーーー」 「今日はいいよ、診察してない」 ルーフの向こう側から、彼は渋い顔で僕を眺めた。 「そういうわけにいきません、ここまでしてもらってーーー」 「じゃあ日曜日、おやすみ、ウィル君」 車に乗り込んだ先生は、ウィンドウの奥で軽く左手を上げると、車を発進させた。 「何あの、ウインク…」 彼の僕に対する態度がどんどん砕けていくのは、それが僕に対する最適な接し方だからなんだろうか?実際、ともすれば、ふと彼が“医師”だと忘れている瞬間もあって、知らず知らずのうちに、僕もその巧みなコミュニケーション術に魅せられてるのかもしれないと思うと、なんだか気恥ずかしいような気がした。 今日もまた、車が1つ目の角を右折して見えなくなるまで見送って、家に入った。 その夜、母さんは先生に言われた通り、特に僕の体のことに触れたりしなかった。夕食を済ませた後、僕は、父さんが帰宅する前に早めに自室に籠った。 夜遅く、日付も変わってもう寝ようかと思っていた頃、ドアがノックされ、母さんがそっと部屋を覗いた。 母さんは「大丈夫?」とだけ僕に聞いた。その顔は複雑だったけど、僕をとても心配していた。 「大丈夫だよ、パパには…?」 「ちゃんと、言っとく」 「…ありがとう」 ハグをすると、母さんは僕を強く抱き締めてくれた。

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