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ch.8
「なんだか、誘拐されたみたい…」
「パパとママに連絡しておいて、遅くはならないけど」
先生は、僕の“パパ”と“ママ”をからかった。
「意地悪ですね…理由は?」
「話しをするとかなんとか、適当に」
さっきまで、きっちりと僕の体の説明をしていた医師とはまるで思えない。
母さんに『先生と話してくる、夕飯までには帰る』とスマホでメッセージを送った。
「どこに行くんですか?」
「ピクニックでもしに行こう、いい天気だ」
16時を過ぎても夏の日はまだまだ高く、見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。幹線道路の交差点で右折して、そのまま西へ向かう行き先は、リージェンツ・パークかハイド・パークだろうと思った。
信号待ちでダッシュボードからサングラスを取り出した先生は、眼鏡を外してそれをかけた。直接日が射さなくても、通り沿いのビルの窓やメタルの反射光が眩しかった。
「さっきの眼鏡、伊達ですか?」
「そう」
「必要ですか?」
「できそうに見せる必要があった」
「かっこつけてた」
「そう見えて嬉しい」
「なんか、金融系のビジネスマンみたいでした」
「おじさんに信用されるためには形から入るのが一番…これまで色々苦労したんだよ」
先生は、わざとらしく疲れた顔で笑ってみせた。
「おじさん」
僕は、唸ってた父さんを思い出して、少し笑った。
車はベイカー・ストリートを左折して、セインズベリーズ(スーパー)の前で停まった。先生が紙幣を何枚か差し出し、「君チョイスのピクニック・セットを買ってきて」と言うから、僕は「ケンタがいい」と言った。ここに停まる間際、北側のブロックの角にケンタッキーがあるのが見えていた。
そして僕はケンタッキーで、先生はスーパーでそれぞれ買い出しを済ませてから、ハイド・パークに向かった。
ハイド・パークの地下駐車場に車を停めると、先生は車の後部に回ってトランクを開けた。そしてその場でいきなりタイを外し、シャツを脱ぎ始めた。
「!?」
細身だと思っていた体は、脱げばそれなりに筋肉があって、胸や下腹部や腕には体毛がしっかりある。あまり意識していなかったけど、先生はちゃんと大人の男なんだと、つい眺めてしまっていた。
上裸になった彼は、荷室から取り出した黒いポロシャツを着た。そしてベルトを外し、靴と靴下を脱ぐと躊躇なくスラックスを脱ぎ捨てて、ボクサーパンツだけの下半身になった。
「!??」
そしてまた、荷室から取り出したジーンズとソックスを身につけ、最後にスニーカーを履くと、「これでよし」とさっぱりした顔をこちらに向けた。
「こんなとこで…」
「誰も見てない」
そう言って、眉をぐいと上げた先生は、すっかり普段の彼だった。
「僕がいたーーー」
「あんな“金融系ビジネスマン”みたいな格好じゃ、ピクニックが楽しめない」
「そうですけど…」
スーツと靴を手際よく荷室にまとめ、代わりに小さなリュックを取り出した先生は、「じゃ、行こう」と白い歯を見せた。両手に食べ物や飲み物を詰め込んだ袋を下げて、まさに準備は万端だった。
慌てて、ケンタッキーの袋を「僕が持つ」ともぎ取って、彼に肩を並べた。
「そもそも、ピクニックするつもりでした…?」
「今日は休日だし、むしろこっちがメイン・イベント」
「休みなのに、すいませんーーー」
「ハイド・パークはあまり来ない?」
「うん、東の方の公園はよく行くけど…」
地上に出ると、先生は眩しそうに顔をしかめてサングラスをかけた。そして、リュックからもう1つサングラスを取り出すと、「はい」と僕に差し出した。
「かけて、まだ日が高いから」
「…ありがとうございます」
サングラスをかけると、シェードがかかったクリアな視界で、彼が「急に大人っぽくなった」と笑った。
ロンドンの中心地にあるハイド・パークは、小さい頃に家族で何度か来たことがあるくらいで、馴染みがない。時々コンサートが開催されたり、ホリデイ・シーズンは大規模なウィンター・ワンダーランド(クリスマスマーケット的な遊園地)が行われるほど、とにかく大きいということしかよく知らない。
園内は、芝生やガーデンの合間を、舗装された歩道が四方八方に伸びている。先生は林と呼べるほど木々が密集した方へ続く道を選んで、僕は彼の横をのんびりと歩いた。
7月下旬の夏の盛り。照りつける日差しは暑く、5分も歩けば汗が吹き出した。先生は水のペットボトルを取り出し、「飲んで」とくれた。
水を補給しながらもう10分弱歩くと、木立の中にベンチが並んでいる所があった。道を外れて、奥まった所にある大きく枝を広げた木の下のベンチを選んで、僕らは腰を掛けた。僅かな木漏れ日しか届かないここは、涼しくて快適だった。
「腹減った、食べよう」
サングラスを外した先生は、僕と彼の間に置いた袋からチキンを取り出し、がぶりと食いついた。
「いきなりケンタですか?」
僕もサングラスを外して、スーパーの袋からアボカドとサーモンのサラダボウルを選んだ。
「それ僕のだ」
「えっ」
「いいよ、食べて」
「いただきます」
遠慮なくサラダをつつくと、先生は「これは僕の」とオリーブのカップを取り上げた。
しばらく僕らは、特に会話もせず、思い思いに食べたいものを好きに食べていた。
時折吹き抜ける風が汗を拭い、火照る肌をひやりと撫でていく。穏やかで、心地がいい。こんな静けさもいいものだと思った時、ふと、公園に来てから、先生が全然喋っていないことに気がついた。
彼を見ると、満足そうな横顔がどこか遠くを眺めている。視線の先を追うと、遥か先の芝生で、飼い主のカップルがラブラドールっぽい黒い犬を走らせて遊んでいるのが見えた。
「…なんか、デートみたい」
冗談のつもりで言ったけど、先生はフフッと鼻で笑って、アイスコーヒーに口をつけただけだった。
冷めないうちにと齧ったケンタのチキンが美味しい。
「先生は、付き合ってる人いますか?」
「いるよ、彼女」
「普段ピクニックは、彼女とするんでしょ?」
「したり、一人で来たり」
「そうなんだ…彼女は、何してる人?」
「看護士」
「バーソロミューの?」
きのこのサラダボウルを開けた先生は、聞こえないフリをして野菜にフォークを刺した。
「…ちょっと、意外」
「何が?」
「クリニックの受付の女性、すごく綺麗な…あの人が彼女なのかなってーーー」
「違うよ…もちろん、彼女はとても魅力的だけど、第一に既婚者だし」
先生はハハっと笑い飛ばすと、僕に顔を向けた。
「君の彼女って、どんな子?」
「ひとつ歳上の、近くの女子校の子…クラブの試合で知り合った」
「…君は彼女に、体のことを言う?」
突然のことに、ドキリとした。できれば避けたい話題だけど、相手が先生ではそうもいかない。そして、なんだかハッピーに思えていた時間があっさり消えてしまったことが、寂しかった。
「もちろん言うつもりはないです、友達にも…」
「そうだよな」とオリーブを頬張った先生の顔は、僕を責めたり何かを説きたいわけでもなく、ただ、僕の意思を確認をしただけに過ぎなかった。
「実は、彼女と…別れたっていう方が、正しいかも」
「そうなの?」
「あれ以来、なんだか会う気が起きなくて…なあなあにしてるうちにお互い連絡もしなくなって…自然消滅みたいな?」
長い手が「そか」と僕の前にオリーブのカップを突き出した。
「先生のでしょーーー」
「嘘だよ」
僕のボウルにいくつかオリーブをもらい、1個食べた。美味しい。
「…ご両親に言ったのは、お金の件のため?」
「……はい」
先生を盗み見ると、フルーツのカップをつついていた。パイナップルを食べた口元はほころんでいて、怒っても困っているようにも見えない。
「…先生に甘えてるのが、耐えられなくなってーーー」
「甘えなんかじゃない…君って本当にマジメだね」
その声音は、呆れているのではなく、どこか面白がってるように聞こえた。
「ごめんなさいーーー」
「謝んなくていい」
「…お金のことは、言わないほうがよかった?」
「いいさ、君がそうしたかったんだから、それでいい」
「食べな」と勧められて、僕もフルーツのカップを開けた。
「いろいろ、ありがとうございます」
「ん?」
「父さんや、みんなに言ってくれたこととか…」
「ああ」
「でも今日、改めて、わかったことがあって………」
「…?」
パイナップルと、ブルーベリー、りんご、マスカットを食べている間、先生は黙って僕の言葉を待っていた。
「僕の体は“疾患”なんだって、病気なんだって思うと、すごく…辛いって」
先生が、セブンアップの缶のタブをぷしっと開けた。炭酸を飲んで細めた目元は、すごく美味しそうだった。
「…医師として説明すると、どうしてもそう言わざるを得ない、ごめん」
「でもそれが事実だから、謝らないでーーー」
「気にするななんて軽々しく言えないけど、深刻に捉えすぎてほしくないと思ってる」
「…まだ、難しいです」
「わかってる、君のペースで受け入れてけばいい」
僕は頷いて、袋を漁ってコーラを選んだ。喉を弾く甘い炭酸は、こういう時に最高に美味いんだとわかった。
「…それで、夏休みは?どっか行ったりするの?」
先生はベンチの背にどかっともたれると、伸ばした長い足を放り出すように伸ばした。そんなにわざとらしく話題を変えてくれなくてもと思うけど、彼のそういうところは嫌じゃなかった。
「友達と南の方に遊びに行こうって計画してます」
「リゾート地?」
「ブライトン、1週間くらい」
「いいじゃん、非日常で思い切りハメ外してくればいい」
「先生は?」
「夏休みなんてないよ、まだまだ働かないと」
「大人って大変だ」
「だから、学生のうちにめいっぱい遊んどきな」
「そうします」
そして僕らは、ケンタのビスケットをデザートにして雑談をした。たっぷりハニーメープルをかけたビスケットを手や口の周りを汚しながら食べて、子供みたいに笑いながら話した。
先生は学生時代の夏休みに馬鹿みたいに羽目を外したエピソードの数々を、僕は、これまでの夏休みのキャンプや、家族旅行の思い出なんかを話した。
最後、ベトベトになった手をペットボトルの水で洗い流して、先生が用意していたハンドタオルで拭った。
「先生は準備がよすぎるね」と言うと、彼は「医者は清潔じゃなきゃ」と得意顔をした。
先生が「そろそろ帰ろうか」と腕の時計を覗いて、スマホを見ると、そろそろ19時半になろうとしていた。
そんなに時間が経ったんだと驚いて、まだまだ明るいんだから、もう少しこうしていたいと思った。
「ご家族が心配するから」とゴミをまとめた先生は、「行こ」と笑った。
暗に「家族と話しなさい」と言われたような気がした僕は、現実に帰るのがイヤだった。
車で送ってもらっている間、地元が近づくにつれて、気が重くなった。
「先生、ありがとうございます、楽しかった…」
「僕も」
「…またいつか、ピクニック、行きたいです」
「しよう」
とうとう家に着いてしまい、車を降りた所で、先生のサングラスがポケットにあることを思い出した。
「あ、せんせ、これっ、ありがとうございます」
返そうと差し出すと、彼は「いいよ」と止めた。
「バカンスで使って」
「…いいの?」
「もちろん、じゃまた、なんかあったらいつでも連絡して」
「はい…おやすみなさい」
「おやすみ、ウィル君」
バタンと閉じたドアのウィンドウの奥で、先生は左手を軽く上げて、車を出した。
いつものように、車が右折して見えなくなるまで見送って、僕は、帰宅した。
その日の夕食は、僕を待っていたせいで少し遅いスタートになった。
両親が心配してくれているのはよく伝わってきたけど、先生の話のお陰で、家族の誰も、自ら僕の体のことを話題にしようとしないからありがたかった。
みんなが食事を終えたタイミングで、僕は「ちょっといい?」と切り出した。
僕は今、僕自身もまだ事実を受け入れられていないこと、できればあまり考えたくないことを伝え、僕が平気になるまではそっとしておいてほしいと頼んだ。
緊張した面持ちで僕を見つめていた家族は、僕が話し終えると、「わかった」「大丈夫よ」「わかった」と口々に返事をして、ようやくその場の空気が普段の感じに落ち着いた。
「何か、もし話したいことがあったら、いつでも言ってね」
母さんの言葉に、父さんも頷いた。
「ありがとう」と返した時、急に胸の内のモヤモヤが軽くなった。本意ではなかったけど、いつまでも隠し通すわけにもいかない問題で、結果的にこうして理解を得られたのは先生のお陰だった。それを思うと、本当に彼の存在がありがたいと思った。
「ねぇ、ウィル」
お茶を済ませたローラが、こそこそと耳打ちをした。
「ん?」
「あの先生、かなりイケメンだね」
「うん」
「それになんか、優しそう」
「いい人だよ」
「いいな、私も主治医になってほしーな」
無邪気な口ぶりは、思春期の女の子の熱っぽい憧れで浮かれていた。
「…頼んでみたら?」
「その時は紹介してね」
ローラは僕の肩をハグすると、リビングのソファに寝転がってスマホを覗き始めた。
やっぱり先生は、女性からしたらすごく魅力的らしい。そう思うと、なんだかよくわからないけど、嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったい気持ちになった。
そして翌日から夏休みに入り、家で過ごす時間が増えたけれど、家族の様子は以前と何も変わらなかった。おかげで僕は、体のことを忘れている限り、以前と変わらない日々を過ごすことができた。
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