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ch.10

予約の日。前回のように18時頃クリニックに行き、あの綺麗な受付の女性にお約束の待合室に通された。今回はモノクロが基調のモダンな内装の部屋で、前回の部屋よりは馴染みやすかった。そして今回は15分待っても呼ばれず、カップのお茶を1杯飲み終え、暇つぶしににスマホでSNSを一通りチェックし、パズルゲームを始めた頃、「大変お待たせしました」と受付の女性に呼ばれた。 診察室に入り、「こんにちは、先生」と声をかけた。デスクの向こうで顔を上げ、「やぁ」とニッコリした先生を見た時、僕は、すごく、すごくほっとした。 対面のソファに掛けた先生は、今日も、髪をラフにまとめて散らしたカジュアルなスタイリングだった。ノータイ、薄いブルーのチェックのボタンダウンのシャツと、濃い紫のストライプ地のスラックス。ふと、こんなモードの彼を見たら、ローラが恋でもしてしまいそうだと思う。 「待たせてごめん、ここんとこ繁盛してて、学会なんかもあったりして、ちょっと慌ただしくて」 「大丈夫です」 冗談めかした“繁盛”に、ついクスっとしてしまう。 ごく自然に僕の緊張を和らげてくれる先生は、まるで魔法使いみたいだと思う。 「1ヶ月ぶりくらいかな?…体はどう?」 「あっ、えと、特に変化はないです…」 僕のカップを覗き、ポットを取ってお茶を注いでくれた先生は、小首を傾げて僕を見つめた。 「ウィル君、大丈夫?ぼんやりしてる」 「大丈夫…だけど、あんまり、大丈夫じゃない、かも…」 「…夏休み?…もしかして、バカンスでなんかあった?」 「…」 強い瞳に真正面から射抜かれて、言葉が出なかった。 そしてすぐ、先生は目尻を緩めて、マグのお茶に口をつけた。 「ここでも聞けるし、車の中でも、ピクニックって時間でもないから…ご飯を食べながらでもいいよ…」 「…ごはん…?」 「じゃ、晩メシ、食べ行くか」 先生はにっと白い歯を見せて笑い、「準備するからあっちで待ってて」ときびきび腰を上げた。 今日も既に、エントランスに受付の女性の姿はなく、結局、会計の請求はされなかった。またかと困っていると「行こう」と呼ばれ、クリニックの戸締まりを済ませてまっすぐ車に乗り込んだ先生について、助手席に乗った。 どこに行くとは言わずに車を出した彼は、今日はラッセル・スクエアの通りを左折して、繁華街の方へ向かうらしかった。 「これ、ありがとうございます」 カバンからサングラスを取り出すと、先生は目を丸くした。 「すっかり忘れてた、使った?」 「はい、おかげさまで、快適でした」 「よかった」 「ここに入れとけばいいですか?」 ダッシュボードを開けると、先生は苦笑いをした。 「別にいいよ、あげたつもりだった」 「そう、ですか…」 「君って律儀だね」とクスクス笑われたから、なんだかバツが悪くなって「じゃ、もらっときます」とカバンに戻した。 「うん、遠慮しないほうが“かわいい”」と低く笑う彼からしたら、僕は保護対象の子供でしかないんだろう。いつかも、子供って言うほど子供じゃないんだけどと不貞腐れたくなった覚えがあるけど、なんだか今日は、ますますそう思う。 もしかして、僕が制服を着てるから余計に子供っぽく見えるのかなと思った時、車は、夕暮れに早くもネオンをキラキラさせる繁華街の街並みを抜けて、地下駐車場に滑り込んだ。 地上に出ると、周辺の少し風変わりな街並みに驚いた。 「…中華街?」 「そ、来たのは初めて?」 「近くまでなら、何度か…」 背を押されて、慌てて彼に肩を並べて歩いた。 記憶が正しければ、この近くには、観光地で有名なコヴェント・ガーデンや劇場街があって、メイン・ストリートの北側には英国最大の歓楽街のソーホーがある。これまで僕は、友達と連れ立ってコヴェント・ガーデンの辺りで買い物を少ししたことがある程度で、この辺りの夜の姿はろくに知らなかった。少し見回せば、通りの向こうにゲイバーの看板が見えていて、話に聞く通りだと圧倒される。そして、制服姿の自分は全く場違いだと嫌でもわかるし、街が醸し出す猥雑な雰囲気にちょっと引いてしまった。 そんな僕に構わず、先生は歩行者天国の真ん中をぐいぐい行く。そこから1つ目の路地を右に入り、2軒目が目的の店らしい。ウィンドウに漢字のネオンがかけられ、店名の看板も漢字の見るからにディープそうな中国料理店の店構えに、僕はまた少し、気後れした。(僕の地元にも中華レストランは数軒あるし、食べたこともあるけど、この辺りの店は本格的に見えた。) 「行こ」と先生は勝手知ったように店に入り、店員に予約はないことを伝えた。 テーブルがぎっしり並ぶ狭い店の客入りは6割ほど、半分が観光客で、残りの半分は仕事帰りの人、残りは中国人らしい。客席の歓談と厨房の調理音と喚くような中国語が飛び交う店内は、やかましい活気に満ちていた。 しばらくして通されたのは奥まった所の個室で、彼は「空いててよかった」と笑った。向かいに座ると、小さなテーブル越しは顔を突き合わせるような距離感で、少し気恥ずかしくなる。 「好きなもの、頼んで」とメニューを渡されて、よくわからないから「点心が食べたい」とメニューを返した。そして、数点のメニューと烏龍茶を2つ頼んだ先生は、「ひいてる?」と僕の顔を覗いた。 「夜にこの辺りに来るの、初めてだからーーー」 「すぐに慣れるよ」 「制服は、ちょっと浮いてる気がします」 「確かに…でも僕が保護者代わりだから、心配しなくていい」 烏龍茶と小皿が幾つかサーブされると、先生は嬉しそうに箸を持った。器用に空芯菜の炒め物をつまんでいる手元は、随分慣れていることがわかる。 「ここは、よく来るんですか?」 「よくってほどでもないけど、中華街ならこの店がお気に入り、ここは四川料理がメインなんだ」 「お箸、すごい上手ですね」 「アジア料理、結構好きでさ…箸が苦手ならフォークもらえるよ」 「大丈夫」と箸でつついた空芯菜は、すごく美味しかった。 「…それで、バカンスで何があったの?」 「ああ…」 先生の問いに、つい、ここに来た目的を忘れていたことに気がついて、同時に憂鬱な気持ちがぶり返した。 「大したことじゃないんです…友人達の悪ふざけが、ちょっとエスカレートして…」 僕を見つめる目がいつになく険しい気がして、僕は俯いて目をそらした。 「罰ゲームでキースって子が裸にされて、それで、ブリッジしろって言われて…僕、もし罰ゲームが自分だったらって思ったらすごく怖くなってーーー」 「大丈夫だった?」 固い声に顔を上げると、先生の表情は強張って、少し怖いくらいだった。そして、先生の言う“大丈夫”の意味することが恐ろしいことだとわかった僕は、胸の内がすっと冷たくなった。 「大丈夫、大丈夫です、僕は何もなかったから…でもーーー」 「でも?」 「彼らは全然悪気がないのはわかってるけど、僕にはすごく怖いことがすぐ近くで起きたのがショックで…」 先生は「うん」と小さく答えて、僕に水餃子と肉団子を勧めた。 渇いた喉を烏龍茶で潤して、肉団子を齧ってみると、これもとても美味しかった。 「僕がビビりすぎなだけかもしれないけど、少し、人と関わるのが怖くなってる、気がするーーー」 「友達は大事だけど、付き合うのがしんどいなら無理に付き合わなくてもいい」 「…」 「…なんて、いいアドバイスじゃないけど」 苦笑した先生の顔からようやく怖さが消えて、僕はほっとした。 「…僕は、先生とこうしてる時が、一番楽です」 「そりゃあ、僕が君のことを一番よくわかってるから」 「そう、ですね」 「…言い過ぎたかな」 「間違ってない」 「ほら、食べて食べて」 ずらりと並んだ皿をひとつひとつ説明する先生は、暗にこの話は終わりだと言っていた。 僕は、餃子や麻婆豆腐や棒々鶏や青椒肉絲や焼きそばなんかををたらふく食べながら、バカンスの夏らしい思い出を報告した。 2時間もたっぷり話をした後で、店員を呼んでお会計を頼んだ先生に「僕が払いたい」と言うと、やっぱり彼は拒否をした。 「子供に払わせたりしないよ」と笑う彼に、少しカチンとくる。 「子供とかじゃなくて、診察代も払ってないし…」 「いいんだ、診療時間外だし」 「…僕、話を聞いてもらってるだけだーーー」 「そうだよ、それだけだ」 店員にクレジットカードを渡し、決済端末にピンを入力した先生は「また来よう」と笑った。 帰りの車の中で、先生は機嫌がよさそうだった。 「どうだった?」 「全部美味しかったけど、ピータンが見た目と違って美味しくて感動した」 「よかった」と微笑む横顔を見ていると、僕は嫌なことを自然と忘れられた。 「僕、たぶん、先生に甘えてると思う」 「…そか」 「…ごめんなさい」 「君は、謝んなきゃいけないことはしてない」 「…ありがとうございます」 それきり先生は黙り込んで、僕は、すっかり夜になった街を彩る派手なネオンを眺めていた。僕らの間を、いつものように音を絞ったラジオが控えめに埋めている。 ふと僕は、いつの間にか、この車の沈黙が平気になっていることに気がついた。居心地が悪かったはずなのにと先生を見ると、彼は今日も、いつだって、僕のことなんかまるで気にしていないようにリラックスして、ステアリングを操作していた。 家の前に着くと、先生がこちらに体を向けた。 「…今日は、ごちそうさまでした」 「うん」 「じゃあーーー」 「…今日の話、君が無事でよかった」 そう呟く表情は、少し驚いてしまうほど真剣だった。 この人が、僕の主治医兼保護者でよかったと思う。 「…うん、大丈夫です、本当に…」 「うん」 「そういえば、妹のローラが、先生イケメンだって言ってた」 「そう?」 「主治医になってほしいって」 「まさかのモテ期だ」とおどけて笑った彼は、いつもの先生だった。 「…じゃあ、おやすみなさい、先生」 「うん、おやすみ、ウィル君」 そして今日も、先生はウィンドウの奥で左手をひらひらとして、帰っていった。

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