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ch.12

予約の金曜日。授業を終えてすぐ、僕はクリニックに直行した。着いたのは17時頃、僕を迎えた受付の女性は、予定の時間より早いことに驚き、さらに僕の顔色がすぐれないことに驚くと、僕を待合室ではなく2階の休憩室に連れて行った。 初めて入る部屋は、ここもクラシックなアンティーク調の内装で、ベッドも調度品も高級ホテルみたいに ゴージャスだったけど、感動している余裕なんてなかった。天蓋付きのベッドに寝かされて、受付の女性を目で追うと、彼女は僕のジャケットをコートハンガーにかけて、カバンをバゲージラックに置いた。まるで本当のホテルみたいだと思っているうちに彼女は消え、ほどなくしてトレイにお茶ではなくマグカップを乗せて戻った。 サイドテーブルにマグを置き、ベッドの端に掛けた彼女は、「シールズさん、大丈夫ですか?」と僕を覗いた。 こんな状況でも、彼女は今日も綺麗で、とても魅力的だと思ってしまう自分を情けなく思いながら、頷いた。 「…すいません、名前、まだ、知らなくて…」 「ファロンです、ご気分はいかがですか?」 「少し、疲れてるみたいです…」 「ホットミルクをお持ちしました、落ち着きますよ」 「ありがとうございます」 「まだ時間がありますので、ごゆっくりお休みください」 完璧な笑顔で僕を労ったファロンさんは、静かに部屋を出ていった。 体を起こしてミルクを飲むと、体がぽかぽかしてほっとした。布団に潜ると、温かくて気持ちよくて、僕は、あっという間に眠ってしまった。 誰かが部屋に入ってきた気配がして、目が覚めた。カーテンが閉じられた部屋は薄暗く、今が何時くらいかわからなかった。それ以前に、ここがどこかもすぐに思い出せない。眠りに落ちる前、なんだか保健室にいるみたいだと思ったようなことを思い出していると、誰かが枕元のランプを点けて、眩しいオレンジの光から顔を背けた。 「…寝てた?」 囁くような声は、聞きたかったその人の声で、嬉しくなった僕は彼の方へ寝返りをうった。 「せんせ…」 「聞いたよ、酷い顔色してたって」 声をひそめたまま、一人掛けのソファチェアを引っ張ってきた先生は、僕の見える所に腰を掛けた。 「今、何時ですか…?」 「18時半くらい」 「結構寝ちゃった…診察室、行きますーーー」 「ここでいいよ」 僕を見つめる瞳も、囁く声も、とても優しい。 ランプの柔らかな明かりに照らされている先生は、僕の守護天使だ。そう思うと、くたびれていた気持ちが奮い立つようだった。 「それで、何があったの?」 穏やかな声に誘われると、僕は、言いづらいこともすらすらと口について出た。 リズとのことを一通り話し終えるまで、先生は黙って聞いてくれた。 「久しぶりに男らしい自分が出てきて、衝動的で、すごく興奮してたんだ、よし!めちゃめちゃファックするぞ!って……わかる?」 「わかるよ」 クスリと笑った先生は、「“ファック”は行儀悪い」と顔を軽くしかめた。 「セックスを始めたらもう無我夢中で、ディックで気持ちよくなることしか考えてなくて…でも、彼女のあそこを見た瞬間、自分の体を思い出して…それを知った時のショックとか、辛さとか、怖さとかが一気にフラッシュバックして…パニックだった…」 「…他には、何かある?」 「…他に…?」 その言葉に、もう一度あの時を思い出してみる。 「飲んで」と促されて飲んだミルクは、もう冷めてしまっていた。マグを返して一息つくと、ぐちゃぐちゃだった頭が徐々に整理されてくる。鮮やかに蘇る、リズの女性器と、自分の体。オスの激しい欲情と、もうひとつの、気づかぬフリをしていた疼くような熱。 「…僕…」 「うん」 「彼女のあそこを見た時、もう、自分の体を無視していられなくなった…」 「…」 「そこを触れられたら…ディックを挿れられたら、どんな感じで、何がどうなってしまうのかも知らないくせに、それを棚に上げて、そういうことをする気になれなかった…」 「うん」 「…前はできたのに、何も知らなくても平気で、気にも留めなかったのに…」 「うん」 「…少し、疲れた」 「もう少し、寝てていいよ」 「…帰らなきゃーーー」 「おやすみ」 ランプが消えて、先生がそっと布団をかけ直してくれるのを感じた。 そして僕はまた、うとうととしてるうちに眠ってしまった。 次に目を覚ました時、部屋は真っ暗だった。慌ててスマホを見ると、21時を回っていた。身支度を済ませて診察室を覗くと、普段、診察に使う応接ソファに先生が寝ていた。 「先生、すごい時間になっちゃった!」 「…ああ、起きた?」 「朝まで寝かせるつもりだった!?」 「心配しなくていい、お母さんには連絡しといたから」 「それは、助かりますけど…」 「じゃあ、送ってく」 叩き起こした先生はのんびり伸びをして、あんまり大したことじゃないみたいに笑った。 クリニックを出ると、先生は僕を連れて例のスタバに行った。 「のんきすぎない?」とぼやいてみても、彼は「腹減っただろ」とニコニコして、ラテとコーヒーとフードを幾つか買った。 店を出ると、街はすっかり夜の顔で、パブに向かう人や帰路につく酔っぱらい、デート中のカップルや夜遊びに繰り出す若者のグループなんかが行き交っていた。ふと、一見医者には見えない、この小綺麗なアカデミック風の男性と制服姿の僕は、端から見たらちゃんと保護者と子供に見えているんだろうかと思ったけれど、どうしてそんなことが気になったのか、よくわからない。 送られる車の中で、早速ラテを飲んだ。「ミルクばっかだ」と呟く僕に、先生は「元気出てきたじゃん」と笑った。 確かに言われた通りで、僕は自分でも少し意外なほど、何か切り替わったような、吹っ切れたような気がしていて、夕方、クリニックに辿り着いた時の倦怠感は消えていた。 特に断りもせず、ほうれん草とソーセージのマフィンをもらって食べた。チーズが入っていて、美味しかった。 「僕も」と紅茶のスコーンを取った先生は、半分食べ終えてコーヒーを飲むと、おもむろに口を開いた。 「…ウィル君さ」 先生が何か大事なことを言い出そうとしているのがわかった僕は、少し緊張した。 「…なんですか…?」 「さっきの話…思うんだけど」 「…」 「ごく真面目な意見だ…けど、だからといって必ずそうしろとも言えないんだけど…」 「はい」 「君の女性器で、オナニーしたらいいと思う」 思いがけない単語に先生を見ると、ただ真剣な横顔が進行方向を見つめていた。 言われた意味はわかっても、すぐに、どういうことか理解ができなかった。これまで、ジョセイキを封印することばかり考えていた僕は、自慰をしようだなんて思いつきもしなかったからだ。 「君がさっき言ってた、もう無視できない、棚に上げていられないって…なら、体を知って受け入れていけば、少しずつでも変わってくはずだ」 「…でも、オナニーなんてーーー」 「ディックでするだろ?女性だってオナニーはする、普通のことだーーー」 「そうなの?」 「男がそうなように、女性だってオナニーで自分の体や性の快感を知ってく、何も変じゃない」 「…」 「別に恥ずかしくない…そりゃ知られたら恥ずかしいけど…君の体を受け入れられる助けになるのなら、オナニーは大いに有効だと思う」 「…」 「けど、さっきも言ったように、必ずしなさいとは言わない、嫌なのにしたって恐らく嫌悪が大きくなるだけだから…これは、体の問題の前に、君の心の問題なんだ」 「…はい」 「うん」 「…少し、考えてみます…」 それきり、先生も僕も黙っていた。 家に着くと、先生は静かに「君は何も駄目じゃない」と言ってくれた。 「…いろいろ、ありがとうございます」 僕をまっすぐ見つめる瞳は、いつかのようにとても強くて、真摯で、優しくて、僕は少し、ドキドキした。 「それじゃ…おやすみなさい、先生」 「おやすみ、ウィル君」 バタンと閉じたドアの向こうで、先生はいつものように左手を振って、静かに車を出した。 「…オナニー」 クリアになった気がした頭を、ごくごく真面目なつもりのHなワードがぐるぐるしていた。

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